『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー)
社会学の泰斗マックス・ヴェーバーが社会学上の重要な諸概念を定義的に明らかにしようと試みた論文です。
大学院のレポートで頭がいっぱいのときに、違う脳を使おうという意味で、気分転換に読んでみました。しかし、たかが、90ページと侮るなかれ。慣れない世界でもあり読み解くのが超難しい・・・。何度も行き来しながら最後までたどり着きました。
(メモ‥本書より)
〇「社会学」とは、社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学を指す。「社会的行為」という場合は、単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為を指す。
〇すべての「理解」は明確性を求める。「理解」における明確性は、①合理的なもの、②感情移入による追体験的なものに二分される。感情移入的に明確なのは、行為の体験的感情連関が完全に追体験される部分。時として、知的に把握しうることはあっても、それらの価値が私達自身の究極的な価値と根本的に違えば違うほど、感情移入的想像力によって追体験的に理解することが難しくなる。
〇「理解」とは、①行為の主観的意味の直接的理解、②説明的理解を指す。
〇「動機」とは、行為者自身や観察者がある行為の理由と考えるような意味連関を指す。
〇「社会学」は、現実から遠ざかりながら、しかも、ある歴史現象がどこまで社会学的概念のあるものに近似しているかを示すことによって現象に整理を施す、そういう方法で現実の認識に役立つものである。
〇「社会的行為」は、他の人々の過去や現在の行動、あるいは、未来に予想される行動へ向けられるものである。外的行為がただ物体の行動の予想に向けられている場合は、社会的行為ではない。内的行動でも他の人々の行動に向けられて初めて社会的行為になる。
〇社会的行為の4分類
①目的合理的行為
②価値合理的行為
③感情的、エモーショナルな行為
④伝統的行為
〇「社会的関係」とは、意味内容が相互に相手を目指し、それによって方向を与えられた多数者の行動のことを指す。行為者間に連帯があるか、その反対物があるかは全く問題ではない。例えば、ある意味を目指す社会的行為のために行われる可能性が消えた瞬間、社会学的に見れば、もう国家は存在しない。
〇「習慣」:規則性があるサークルの内部に存在する可能性がただ現実の行動によって与えられている場合。この行動が久しく身についたものであるとき「慣習」と呼ばれる。「流行」も習慣に属する。その行動の新しさゆえに行為がそれに従う場合、「習慣」は「慣習」と呼ばれず、「流行」と呼ばれる。「慣習」は「慣例」や「法」とは違い、外的に保証されない規則。どこの国でも、実際に以前から行われてきたという事実が効力の源。
〇「慣例」とは、あるサークルの内部で効力を認められ、違反には非難が加えられることで保証されている「慣習」を指す。特に強制を任とするスタッフはいない点で「法」とは決定的に違う。
社会学上の概念や言葉の定義が書かれた内容なので、辞書の背景を議論しているようなイメージでした。きちっと定義を考えるというのは、実はとても深い話であるということを感じます。言葉って難しい・・(>_<)