MBA男子の勝手に読書ログ

グロービス経営大学院を卒業したMBA生の書評と雑感。経営に関する基本書、実務書のほか、金融、経済、歴史、人間力、マネジメント力、コミュニケーション力、コーチング、カウンセリング、自己啓発本、ビジネススキル、哲学・思想など、幅広い教養を身につけ、人間性を磨く観点で選書しています。

おわらない音楽(小澤征爾)

 『おわらない音楽』(小澤征爾

 本書は、日経新聞に連載されている「私の履歴書」が単行本化されたものです。

 兄の影響でピアノを始めた著者ですが、ラグビー少年でもあり、中学の試合中に両手の人差し指を骨折したことで、ピアノを断念することに。そこから指揮者への道が始まります・・。

 

(印象に残ったエピソード‥本書より)

〇「どの動きもいつ力を抜き、いつ入れるかは厳密に決まっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚え込ませなきゃいけない。」という、齋藤先生の教えに対し、歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。変な奴だと思われただろうが、周りの視線も気づかないくらい集中していた。

 

〇23歳のときに多くの方の協力を得て、貨物船に同乗させてもらいヨーロッパへ単身渡航。一時、強制送還されそうになりながらも、フランスで友人の協力を得て、ブザンソン国際指揮者コンクールに出場。ここで優勝し、指揮者への道が開ける。

 

〇25歳のときにヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選出するコンクールに通過し、ベルリンでレッスンを受ける。「カラヤン先生は僕が立っている式台の真下の椅子に座り、鋭い目でじっと見ている。技術について細かいことを言わない代わり、大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性。曲の中でいかに音楽の頂点を見定めて、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。途中で流れを止めず、よどみなく演奏を導くにはどうするか。そのことを僕に教え込んだ」

 

N響のボイコット

 27歳のときにN響を指揮するも経験不足から、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに。その後、N響の演奏委員会が「小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。それが新聞に報じられマスコミに追われるようになった。12月の第九の演奏会も中止に。順調だった指揮者人生の中で、大きな挫折経験となった。

 

N響とのトラブルのあと、「もう日本には帰らない」と渡米。半年仕事がなかったが、指揮者に穴が開いたラヴィニア音楽祭の音楽監督に急遽就任。しかし、地元紙が「なぜこんな指揮者を雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこの指揮者のもとで演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあって頭に来たが、演奏会は成功し、アンコールで舞台に呼び戻されたときに演奏家から祝福を受け、信頼を得た。

 

N響でボイコットされたせいかもしれない。ラヴィニア音楽祭やトロント響にポストがあっても、いつも切羽詰っていた。初めての音楽祭やオーケストラで指揮するとき、マネージャーは決まって僕に言った。「セイジ、チャンスは一度きりなんだ」。そこで着実に成功を収めて、「また来てほしい」と次の仕事につなげなければダメだ。そのチャンスを逃せば、次はない。いつも崖っぷちにいるようだった。

 

〇亡くなった恩師齋藤先生が僕らに教え込んだのは、音楽をやる気持ちそのもの。作曲家の意図を一音一音の中から掴み出し、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯をかけて教えた。

 

〇2012年3月から1年間、きちんと体力を付けるために、休養とトレーニングに集中し、指揮活動を休止。休んでいる間、「指揮したい」という気持ちが募り、復帰してからは一回一回の音楽界により強い思いがこもるようになった。喜びの密度が前と違う。時間がある分事前勉強にもじっくり取り組め、毎日一時間半くらいかけて、四小節や八小節ずつ勉強する。終わりに近づくと名残惜しくて、「明日も同じところをやろうかな」と思う。それだけ時間をかけて準備すると手が良く動くし、耳の精度が上がる気がする。

 

 

 全然知らなかった、著者の挫折経験。もの凄いプレッシャーの中で一度のチャンスをつかみ切れるかどうか。まさに、その場その場が真剣勝負の繰り返しですね。

 一度、偶然にも新幹線で比較的近い席に座る機会があったのですが、その際、ずっと音楽の話をされていたのが印象的でした。さすがに、すごいオーラでした!

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