『安岡正篤 人間学』(神渡良平)
本書は、陽明学者である安岡正篤さん(1898~1983年)の著書から人間学にまつわる部分を100余り引用して解説を加えたものです。歴代総理の指導者として政治の節々に登場し、官僚・財界の教育に当たった安岡さんの教えの要点が掴めます。
■ひとことまとめ
先人に学び、今の自分に向き合い、真剣に生きること
(印象に残ったことば‥本書より)
〇宿命を超える
環境が人を作るということに囚われてしまえば、人は単なる物、単なる機械になってしまう。人は環境をつくるからして、そこに人間の人間たる所以がある。自由がある。即ち主体性、想像がある。だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境をつくる。人間ができないと環境に支配される。
〇人間学の二条件
①人間である以上、迷いや心配事、窮することは避けられない。しかし、学問教養を積めば、どうすればどうなるかということが分かってきて、精神的に参ってしまうことはない。こうなってこそ真の主体性が立つ。惑うことがないので自由である。
②内面的には良心の安らかさを得、それを外に発して、自己を捧げて、世のため、人のために尽くすこと
〇読書と運命
人間は学問修養しないと、宿命論的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問を修養すると、自分で自分の運命を作ってゆくことができる。
〇天に近づく
真理を学ぶとか、道を修めるとかは、要するに、自分に与えられた心というものをいかんなく究明し発揮することである。どんな一事、一物からでも、それを究尽すれば、必ず真理に近づいていき、ついには宇宙・天・神という問題にぶつかるもの。
〇忘れるほど思う
物事に感激してただひたすらに打ち込む。結局人生というものはそういうものではないだろうか。仕事に全身全霊で打ち込むとき、そういう仕事ぶりはおのずから評価され、ますます大きな仕事が与えられる。
〇静粛なひと時
正しい考えに行きつくためには、止まって考えることが必要。だから正という字は一と書いて、その下に止まると書く。忙しければ忙しいほど、静かに静座し、黙想することが必要。
〇知識・見識・胆識
知識を見識まで高め、見識は胆識までならねば、実際の仕事はできない。
・見識:ことにあたってこれを解決しようというときに、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどが内容となって出てくる。これが見識。
・胆識:決断力、実行力を持った見識
〇有名無力、無名有力
有名は多く無力になる。本当に有力な人になろうと思ったら、なるべく無名でおることを考えなければならない。「忙」という字は、立心偏に亡ぶと書く。心が亡くなるということで、忙しいと本当に心が亡くなる。迂闊になったり、粗忽になったりする。
〇喜神を含む
人間、よいときもあれば、悪いときもある。どういう境遇であれ、それを甘んじて受け入れ、そこから再出発していくということは、じつは運命の転換方法でもある。
〇自己啓発の工夫
例えば銀行員であれば銀行の仕事さえ几帳面にやっていればそれでいいかというと、そうではない。人間は一つには自然の存在だから、自然の法則にも支配される。我々の精神活動が単調になると、物の慣性・惰力と同じ支配を受け、じきにエネルギーの活動が鈍ってくる。つまり人間がつまらなくなる。精神を惰性にさせないためには、①良い師や友を持つこと、②内面生活を豊かにしてくれる読書。
〇忘の効用
忘れるということも、じつは天が人間に与えた能力。ないものねだりをして過去にこだわってもどうなるものではない。それよりもそれは忘れて、あるものを駆使して与えられた今生の生を精一杯生きていくことのほうが大切ではないか。
〇志は気の師なり
大切なものは「志」。志気、志操、志節といわれるもの。これは気から生まれてくる。そもそも気力とは、その人の生を実現しようという絶対者の創造的活動であるから、必ず自らを実現しようとする何物かを念頭に発想するわけです。志気は現実のさまざまな矛盾抵抗にあっても容易に挫折したり消滅することなく、一貫性、耐久性をもって「志操」になり、「志節」になります。
他にも感慨深い言葉が溢れています。自分について、これから先のことについて、考える場面があると思いますが、そんな際にこの中の言葉から気づきがあり、光が差すような気がします。安岡さんの著書も何冊か読みましたが、少し難しく感じたので、本書のような解説が付されている本はありがたいです。