MBA男子の勝手に読書ログ

グロービス経営大学院を卒業したMBA生の書評と雑感。経営に関する基本書、実務書のほか、金融、経済、歴史、人間力、マネジメント力、コミュニケーション力、コーチング、カウンセリング、自己啓発本、ビジネススキル、哲学・思想など、幅広い教養を身につけ、人間性を磨く観点で選書しています。

「空気」の研究(山本七平)

『「空気」の研究』(山本七平)(◯)

 本書は昭和52年に発行された単行本が昭和58年に文庫本化されたものです。現代に発行されている場の「空気」に関する本は、だいたい本書を参考にしています。目に見えない空気と同じく、目に見えない場の空気に支配されることがあり、意思決定も空気が決めるというような、よくよく考えれば訳がわからない絶対的高速である「精神的な空気」にスポットを当てて、「空気」としてもう一つの概念「水(を差す)」を掘り下げた一冊です。

 

(印象に残ったところ・・本書より)

◯「空気」とは

・非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」。

・論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれている。

・我々は常に論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種ダブルスタンダードのもとに生きている。

・我々が通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準。

・議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成して生き、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっていることが多い。

 

◯臨在感

・臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは常に歴史的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起こってしまう。

・二方向、二極点への臨在感的把握を絶対化し、その絶対化によって逆にその二極点に支配されると、それだけで人が完全に「空気に支配され」て、身動きができなくなる。

 

◯「空気」の支配とは、対立概念で対象を把握することを排除すること

・例えば一人の人を①「善悪という対立概念」で把握するということと、②人間を善玉・悪玉に分け、ある人間には「自己の内なる善という概念」を乗り移らせてこれを「善」と把握し、別の人間には「自己の内なる悪」という概念を乗り移らせてこれを「悪」と把握することは、一見似ているように見えるが、まったく別の把握の仕方である。

・一方は、官軍・賊軍ともに、善悪という対立概念で把握し、他方は、官軍は善、賊軍は悪と把握していれば、この両者がまったく違った形になるのは当然。

・前者はすなわち「善悪という対立概念」による対象把握は、自己の把握を絶対化し得ないから、対象に支配されること、すなわち空気に支配されることはない。

・後者は一方への善という把握ともう一方へのその対極である悪という把握がともに絶対化されるから、両極への把握の絶対化によって逆に自己を二方向から規定され、それによって完全に支配されて、身動きができなくなる。

・相対化された対象は、その臨在感的把握の絶対化ができないから、対象による被支配はなくなり、したがって、空気は消失してしまう。

 

◯「水を差す」

・「水を差す」と一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味している。

・「水」は伝統的な日本的儒教の体系内における考え方に対しては有効なのだが、擬似西欧的な「論理」には無力であった。同時に西欧を臨在的に把握する空気的進歩主義者は、「水を差す」を敵視し、それが悪であるかのごとき通念を国民に植え付けた。

・昭和の悲劇とは、表面的には西欧的といえる仮装の論理に基づく「空気」の支配に対して、伝統的な「水」がまったく無力だったことに起因している。

・「水」の基本は、「世の中はそういうものじゃない」とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」とかいう形で、経験則をもとに思考をうち切らす行き方であっても、その言葉が出てくるもととなる矛盾には一切触れない。

 

◯「水を差す」がもたらすもの

・「やろう」となったところで誰かが言う「先立つものがねぇなあ」・・一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的に言えば、全てこれなのである。

・その一言で、人は再び、各人の日々、すなわち自己の「通常性」に帰っていく。我々の通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば現実であって、しとしとと降り続く「現実雨」に「水を差し」続けられることによって、現実を保持しているわけである。

 

◯日本的情況倫理

・論理的正当化は常に「造り出された情況」を中心に回転する。「状況への対応」だけが「正当化の基準」とされる。この点は、空気と違うところ。空気は、理由が言えずただ空気だったと言えるだけ。空気そのものの論理的正当化は不可能である。

・人間は、「現在の情況から当時を考察する」ことはできても「当時の情況を考察」することは不可能である。例え何らかの記録でその一部を知り得ても、我々はもはやその「意識を自らの意識とする」ことは不可能である。

・ただ一つ可能なことは、、現在の意識で当時の自分の行動を見、その自らの行動から逆算して、現在の意識との対比で当時の意識を探ることだけ。

・「当時の情況」 という言葉は、現代を基準して構成した一種の虚構の情況であって、当時の情況とその情況下の意識を再現させてそれを把握できるわけではない。

・この虚構の基準の下に判定される情況倫理に基づく判断は、すべて、現在の情況倫理に反応する現在の意識と、それに基づく判断の過去への投影に過ぎず、一種の自己の情況の拡散に過ぎない。人間にそれ以上のことはできない。ところが、できないという意識を持ち得ないのが情況倫理の特徴である。

 

 文章自体はちょっと難しくとっつきにくいかなという面はありますが、よく読むと言いたいことが分かり、示唆に富んでいます。もし、難しくて読みにくいと思ったら、別の「空気本」が何冊か出ているので、そこで本書のエッセンスもつかめると思います。

 場の「空気」を意識し、空気を作り出す、変えることを試み、「水を差す」ことの持つ意味を意識するということだけでも、判断にあたっての心構えはかなり変わるのではないかと思います。判断業務に携わる方ならこの分野の概念を一度は押さえておきたいところです。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

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