『読書について』(小林秀雄)
昭和の文芸評論家、批評家として有名な著者の読書論。読書を中心に、文章、国語、批評についてなど、短編集になっています。共感できるところもあり、気づきもあり、そう考えるのかと自分の思考が動くところもあり、ちょいと難しいところもあり、読者によって感じ方に幅がかなりありそうです。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯読書について
・僕の経験によると、本が多すぎて困るとこぼす学生は、大概本を中途で止める癖がある。濫読さえしていない。努めて濫読さえすれば、濫読に何の害もない。むしろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書が本当に楽しみになるということも容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪るように読むことで養われる他ないからである。
・読書の楽しみの源泉には、いつも「文は人なり」という言葉がある。この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早い而も確実な方法。手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んで見るのだ。
・「文は人なり」という言葉、それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいるという意味。
・間に合わせの知識の助けを借りずに、他人を直に知ることこそ、実は、本当に自分を知ることに他ならぬ。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけ。
・読書の技術が高級になるにつれて、書物は読者をはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に眼覚めさせるもので、読者は、途中で度々立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうかを確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もういっぺん読めと求められるだろう。その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。
・今日の様な書物の氾濫の中にいて、何を読むべきかと思案ばかりしていても、流行に署名を教えられるのが関の山なら、これはと思う書物に執着して、読み方の工夫をする方が賢明だろう。
◯作家志願者への助言
①つねに第一流作品のみを読め
②一流作品は例外なく難解なものと知れ
③一流作品の影響を恐れるな
真の影響とは文句なしにガアンとやられること。心を掻き廻されて手も足も出なくなることだ。
④若し或る名作家を選んだら彼の全集を読め
⑤小説を小説だと思って読むな
文学に何ら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がる。
◯文章鑑賞の精神と方法
・文章鑑賞において大事なこと
①素直に愉快に文章を味わうことが出来ることが出来るかと自信を持っているような自覚を持つこと
②自分の気質の自覚の上に立ったよい趣味を持つこと
・鑑賞家の2つの誘惑
①批評の誘惑
ただ鑑賞しているということが何となく頼りなく不安になってきて、何かと確とした意見が欲しくなる。なまじっか意見があるために広くものを味わう心が衰弱してしまう。意見に準じてすべてを鑑賞しようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか鑑賞できなくなってくる。
②表面的
どんなものでも味わうことが出来るということは、自然とものを深く味わず、表面だけを楽しむという傾向に陥りやすいことは見易い道理。
◯読書の工夫
・先ず大概の若い人たちが、自ら進んで読み方の工夫をしなければならぬというようなことは、まったく考えず、いつも本に向かって受け身で接している。だから、いくら小説を沢山読んでも、小説の読み方というものは一向進歩しない。
・そのうちに物事を夢想して楽しむ若い年頃の力が枯れてくる。知識欲がいろいろな事情で衰えてくれば、本から遠ざかることになる。
・先ず大多数の人たちがそういう経路をたどる。つまり、自分で本を読む工夫を凝らして、読書の本当の楽しみというものを養おうとはしないものだ。
・読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向こうでそれを充たしてくれるというものではない。読書もまた人生の経験と同じく真実な経験である。耐えず書物というものに読者の心が目覚めて対していなければ、実人生の経験から得るところがないように、書物からも得るところはない。
批評家の方の読書論とはさぞかし手厳しいものかと思ったら、問題意識は共感できるもので、時代の流れの中で失われそうな部分を指摘されている。時代の流れの中で、その利便性を享受するところと、時代が変わっても変わらない本質を押さえること。読書の問題に限らず、いつもここへ戻ってくる。「読書の工夫」で書かれているように、人生経験と同じく、自分自身の心が目覚めていなければ、得るものはないということ。まず「自分自身の心」。ここは時代が変わっても変わらずに求められる部分。あえて問われることが少ない時代だけに。