『獄中からの手紙』(ガンディー)(◯)
インド独立に尽力したガンディーの自著です。1930年に刑務所に収監されていた際に書かれた手紙で修道状の戒律を検討した内容が紹介されています。いやはや、すごい人です。あり方もすごいですし、ここまで広い目で深く真理を考えて、言語化し、コンパクトに伝えられるという力もすごいなと感じました。岩波文庫で110ページ強ですが、300ページの単行本を読むくらい時間がかかりました。何度も戻って伝えたい内容を感じながら進む感じが良書ならではです。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯真理
・「真理は神なり」。神を表す最も重要な(正確な)名称。
・真理のあるところには、真の知識(意識)がある。真理のないところには真知はありえない。
・「実在=意識=歓喜」すなわち、「真理=知=歓喜」。真理への献身が私たちの存在を正当化する唯一の拠り所。私たちの一挙手一投足は、真理をめぐって行われなければならない。ひとたびこの段階に到達すれば、正しい生き方に関する他の一切の規範は労せずして見い出せるでしょうし、本能的とも言えるような自然さで、それらの規範に従っていけるでしょう。
・真摯な努力を重ねていけば、一見異なる真実に見えるものが、結局は、同じ樹に繁茂する見かけの違った無数の木の葉のようなものであることがわかるでしょう。
◯アヒンサー(愛)
・結局私たちは盗賊を罰するより赦した方が良いことに気づく。こちらが絶えることで彼らを正気に立ち返らせることもできる。そのように対処することで、盗賊も私たちと変わらぬ人間であり、同胞であり、友であり、したがって罰せられないことがわかる。しかし、盗人は赦せても、彼らの加えた危害は見過ごしてはなりません。それではただの臆病です。私たちが盗賊を親戚縁者とみなす以上、彼らにもこの血縁関係に気づかせないといけない。そこで私たちは、努めて彼らの心を捉える方法を考え出さなければならない。これすなわち、アヒンサー(愛)の道です。
・こうして足一足、私たちは全世界を友とすることを学び、神、すなわち真理の偉大さを実感しゆくのです。
・永遠なるものとそうでないものの違いを一層明確に理解し、己の果たすべき義務とそうでないものを峻別する術を学ぶ。こうして、私たちの思いあがりは消え失せ、謙虚になる。
◯嗜好(味覚)の抑制
・経験上、嗜好の抑制を習得すれば禁欲戒の実行は比較的容易になることを知っている。
・美味を楽しまない。美味は舌の快楽を意味するから。食物は薬を摂るがごとくに摂取されなければならない。すなわち、美味か否かを考えず、また肉体の必要に限られた分量だけを摂らなければならない。
・これまで楽しんできた多くの食べ物は、栄養的に必要でないと理由で放棄しなければならないことがわかる。色々な食品の摂取をやめる人は、いつしか自然と自己抑制を身につけることになる。
・誓いを立てるということは、最初からそれを完全に実行できるという意味ではない。なんらかの逃げ口上を弄して自己を偽ってはならない。自分に都合の良いように理想を後退させたり低減させたりするのは、虚偽をはたらくことであり、自らを卑しめること。
◯不盗
・真理と愛は一つであり、同じもの。にもかかわらず、私は真理を一層重視する。最高の心理は、それ自体で存在する。真理は目的であり、愛はそこに至る手段です。
・自分が必要としないものは、一物たりとも受け取ってはならない。この種の盗みは、一般には食物が対象となることが多いようです。要りもしない果物をもらったり、必要以上に多量にもらうのは、盗み。私たちは必ずしも自分の本当の必要量に気づいていない。そこで、たいていの人は自分の必要量を不当に水増しし、知らないあいだに自分を盗人に仕立てている。
・不盗の戒律を守る人は、漸次、必要物を減らすことができる。この世界の悲惨な貧困は、多くの場合、不盗の原理の不履行に起因している。
◯無所有清貧
・真理の探求者、すなわち愛の法の信奉者は、明日に備えて何一つ貯えてはならない。
◯無畏
・神の属性の筆頭にあげるに十分値するであり、他の高貴な諸特性の発展に不可欠なもの。
・一切の外的恐怖をかなぐり捨てなければならない。しかし、内なる敵には、常に恐怖心を抱いていなければならない。
・恐怖心はどれも皆肉体をめぐって生じるものだから、肉体への執着を捨て去れば、即座に消滅する。富や家族や肉体への執着を捨て去れば、恐怖は私たちの心中に巣くうことはない。
◯寛容即ち宗教の平等
・寛容という語には、他人の宗教が自分のものより劣っているといった、いわれなき思い上がりが含まれている。尊重という語にもある種の恩着せがましさが読み取れる。
・他人の宗教心に対して、私たちが自分の信仰に抱いているのと同じ尊敬を払うべきことを教え、ひいては自分の宗教の不完全さをも認めることになる。
・人間が考え出した宗教が、どれもみな不完全だとすれば、宗教の優劣を比較するといった問題は起こりえない。
・ちょうど一本の樹は幹は一つですが、枝葉が無数にあるように、真の完全な宗教は一つだが、それが人間という媒体を通して表されるときには多となる。
・一なる完全な宗教は、一切の言語を超えたもの。ところが不完全な人間が、それを自分で駆使できる言語で語り、その言葉がまた、同じ不完全な人々によって解釈される。いずれの人の解釈が正当だと主張できようか。誰もみな、その人の見方からすれば正しいと言えましょうが、誰も誤っているとは言えないこともない。ここにおいて、寛容の必要性が生じる。
・寛容というのは、自分自身の信仰に対する無頓着のことではなく、己の信仰へのより知的で純粋な愛を持つことを意味する。
◯謙虚
・謙虚そのものは戒律にはなりえない。なぜならそれは、意識的に実践されるものではないから。
◯請願の重要性
・誓いを立てるというのは、弱さの証拠ではなく、強さの証拠。なすべきことを何が何でも遂行する。これが請願。
・なにかを「できるだけ」やってみましょうという人は、自尊心か、あるいは弱さを露呈している。実際にはそうした心理的態度には、ひとかけらの謙遜の心は見当たらない。「できるだけのことは・・」という限定付きは、決定的な逃げ口上であることに気づきました。「できるだけ」なにかを行うという態度は、事に当たって初めから、すでに誘惑に屈していることなります。
◯犠牲
・世俗的なものにせよ、精神的なものにせよ、報酬を望まずに行われる他人の幸福に捧げる行為。
・最高の犠牲は、最大地域の最大多数の人々の幸福へと人々を導く行為であり、しかも最大多数の男女が最小限の苦労で行えるような行為でないといけない。
・意識するしないは別にして、私たちの誰もが何らかの奉仕を行っている。もし私たちが、奉仕を行う習慣を意欲的に身につけるならば、奉仕への意欲はいよいよ強まり、自分自身の幸福のためだけではなく、広く世の中の幸福のために貢献することでしょう。
この本は深いです。実に深い。生き方、あり方の領域が違う感覚。今の私がここから学んで実践できるとすれば、「できるだけ」という一語を使わないこと。それはすでに逃げていることこを思い返してみたいと思います。一方で、「誓いを立てるということは、最初からそれを完全に実行できるという意味ではない」というメッセージは、勇気付けられます。