『わかる仏教史』(宮元啓一)
タイトル通り、仏教史をまとめたもので、わかりやすさという点でとてもよくまとまっていると感じました。本書は、高野山大学のレポートのために主に大乗仏教のあたりを中心に読みました。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯大乗仏教とは何か
・紀元前一世紀の後半あたりから、新しい仏教を提唱する、おそらく自然発生的な大衆運動が展開された。その運動の担い手たちは、自らの仏教を「大乗」と呼び、伝統的仏教、特に説一切有部の仏教に「小乗」という蔑称を与えた。
・彼らは、ゴータマ・ブッダに仮託した数多くの経典を精力的に創作した。歴史的に見れば、大乗経典というのは、ゴータマ・ブッダその人に源を発することのない、新たにこしらえたものだから、伝統仏教からは「大乗非仏説」(大乗はゴータマ・ブッダが説いた教えとは無関係である)との、当然の非難が浴びせられた。この歴史的事実は、しっかりと把握しておかねばならない。
・一口に大乗仏教と言っても、中身は雑多で、大まかには般若波羅蜜多系、浄土教系、華厳系、法華系など、趣の違う幾つもの流派に分かれている。このように雑多であるというのは、大乗仏教が、特定の個人や狭いエリート集団の創唱になるものではなく、自然発生的な大衆運動の中から芽生えたことをはっきり指し示している。
◯中観哲学
・紀元前二世紀から三世紀にかけて、ナーガールジュナ(龍樹)という人が登場し、たくさんの著作を世に出し、大乗仏教で最初の学派である中観派の開祖となった。
・『根本中頌』(中論)を代表作とする一連の著作の中で、般若波羅蜜系の経典に熱烈に謳われる「一切皆空」を、ありとあらゆる詭弁・虚偽論、つまりはインチキ論法を呆気にとられるほどあからさまになりふり構わず用い、そうした生命感覚の持ち主ならば立ち得ない実在論の立場から実在論を論駁することに全力を傾けた。
・龍樹はすべてのものごと(一切法)を縁起的な存在(因縁生)だと見る立場とる。すべてのものごとは、固定的で不変の本体を欠く(無自性)のであり、したがって中身が空っぽ(空)である。
・ものごとに与える名称も、ただ仮のもの(仮名、仮設)にすぎず、それに対応する確固とした実在を持たない。したがってまた、ものごとの真実のあり方は、言葉や概念によってはとらえられない(離言説)。かといって、そうした真実を説明し、人に伝えるには、言葉や概念を用いざるを得ない。この微妙な線を細心の注意を払って進む立場のことを中道と言う。
・『根本中頌』では「不滅不生、不断不常、不一不異、不来不去にして、よく諸の実は空なる仮象世界を寂滅する吉祥なる縁起、その縁起をときたまう、もろもろの説法者のなかの最勝なる正覚者(ブッダ)に、我は敬礼してたてまつる」というように、いわゆる「八不」によって、縁起のあり方を代表させている。
昔、教科書で読んだことがあるなという「大乗仏教」。大乗仏教には様々な教典がありますが、この中でも有名なのが「大般若波羅蜜多経典」。600巻もあり、まぁとても普通の人が読めるような量ではないので、私は、「歳を重ねるほど楽しい人生」を過ごすために、「人生に活かす」という観点から学問(哲学)としての仏教の世界に触れており、あまり欲張らずにまずは骨子を掴んでいきたいと思います。