『世親』(三枝充悳)(◯)
世親(ヴァスパンドゥとも呼ばれる)は、大乗仏教の時代に「唯識」を説いた方です。「我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみがある」とした『具舎論』。すべての事物は心が創り出した表象にすぎないと主張する唯識論など、仏教論理を完成させた知の巨人です。アーラヤ識と呼ばれる深層心理を重視し、現代の精神分析をはるか1600年前に先取りした緻密な唯識学の全体像が記されています。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯アーラヤ識について
「それらのうちで(衆生の世界内存在の)根本に成熟する果報とは、アーラヤと呼ばれる識であって、あらゆる(迷いの諸存在をあらしめる)可能力(種子)を含んでいる」(二cd)
⇨アーラヤ識にはもともと2つの意味がある。
①あるものをおさめる蔵
②執著の対象
あらゆる事象は、深層的心活動と表層的心活動との相互因果関係の上に成立すると見る(アーラヤ識縁起)
「そしてこの識は、維持されるものと場所とを対象とした知覚されないほどの微細な認識作用を持つ」(三a-b)
⇨アーラヤ識の対象は、内的には「維持されるもの」。外的には「場所」。
維持されるものとは、一つは肉体、もう一つは種子である。感覚器官のことを仏教では根と呼び、そのような器官を持つ肉体を「根を有する身体」すなわち「有根身」とよぶ。つまり感覚力ないし知覚力・思考力を持つ生命体の身体を有根身と呼び、人間で言えば「肉体」と呼ばれるものである。この肉体は心によってその機能が維持されているという観点から、肉体を「維持されるもの」と呼ぶ。
もう一つアーラヤ識によって維持されるものは種子である。種子は肉体と違ってアーラヤ識から作り出されたものではなく、アーラヤ識の中に蓄えられたものである。だがアーラヤ識と種子とは決して別なるものではなく、アーラヤ識の特殊な働きが種子である。つまりアーラヤ識は本体であり、種子はその作用である。
場所とは我々がその中で棲息する自然界のことである。それを一つの器に例えて「器世間」とも呼ぶ。下界の自然界は根本識であるアーラヤ識から作り出され、同時にアーラヤ識の認識対象となっているという考えは、自己と世界とはすべて心の表象にすぎないという「主観的観念論」の極意である。
「その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、まったく平静(なる感情)であって(楽でもなく苦でもなく)、そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていない」(四ab)
「そうして、その(アーラヤ識)は、生々流転しつつ存在する。あたかも河川の如くである」(四cd)
⇨われわれの根本心であるアーラヤ識が善でも悪でもないからこそ、われわれは悪から善へと自己を変革することができる。アーラヤ識そのものが悪であれば、われわれは根底から悪であり、もはや救済の余地がない。アーラヤ識が善であるならば、われわれはすでに解脱しており修行する必要がない。またこの世には悪人や苦悩者はいなくなる。
⇨アーラヤ識は固定的・実体的自我ではなく、一瞬一瞬、生じては滅し、滅しては生ずる相続体に過ぎない。
アーラヤ識は潜在意識レベルの識のことで、ここに何を蓄え、どう使っていくのか。論理と感覚の世界をバランスよく両立したい私にとっては、また一つ興味が湧く箱を開けてしまった感じです。しかし、この世界観。どうやって人に伝えることができるのか。自分のものにできれば良いというのも一つの考えですが、どうにか人に伝えられるようになりたいものです。