『アティーシャの知恵の書(上)』(OSHO)
20世紀を代表するインドの思想家OSHO講和録シリーズ。アティーシャとは、チベット仏教の中興の祖。そのアティーシャの教えを解説した一冊です。
◯慈悲の技法
・息を吸い込むとき、自分は世界のあらゆる人々の全ての不幸を吸っているのだ、と思いなさい。全ての暗闇、全ての否定性、あらゆるところに存在する全ての地獄、あなたはそれを吸いこいんでいる。そしてそれを、あなたのハートの中に吸収させなさい。
・西洋のポジティブ思考の人々は全く反対のことを言っている。「息を吐く時は、自分の不幸と否定性の全てを吐き出しなさい。そして息を吸うときは、喜び、肯定性、幸福、明るさを吸い込みなさい」と言っている。
・アティーシャの技法はまさにその反対だ。息を吸うときは、過去・現在・未来における世界の生きとし生けるものの不幸と苦しみを吸い込みなさい。そして息を吐く時は、あなたのすべての至福、すべての祝福を吐き出しなさい。息を吐いて、あなた自身を存在の中へと注ぎなさい。これはすべての苦しみを飲み込み、すべての祝福を外側の世界へと注ぐと言う慈悲の技法だ。
・そしてやってみると、あなたは驚くだろう。自分の内側に世界の全ての苦しみを受け入れるとたちまちそれは苦しみではなくなる。ハートは即座に変容される。ハートとは変容させる力だ。不幸を吸い込みなさい。すると祝福に変容される。そうしてそれを吐き出しなさい。
→瞑想のトレーニングでよく行われているのは、息を吸うときに「幸せ、豊かさ、楽しいこと、心地よいこと、気持ち良いこと、元気、勇気など、良いものを吸い込む」。そして、息を吐くときに「辛さ、だるさ、疲れ、怒り、不安、もやもや、悩みなどネガティブなことを吐き出すこと」。
しかし、アティーシャの教えは、この逆です。最初は、「ネガティブなことを吸い込むなんてどうなの?」と懐疑的に読んでいましたが、ちょっと思い当たることがありました。それは、ネガティブなことも一旦は引き受けることで、解決へと進み、課題が一旦クリアされるという経験が最近とても多いこと。
「神様は同じ課題を与える」
「解決されない課題は、何度も与えられる」
「向き合わない課題は永遠に繰り返される」
表現はいろいろありますが、ネガティブを避けていても避け切れるものではないということ。そういえば、最近、仕事でも、あえてネガティブな感情が湧くことを拾いにいっていることが、度々あります。結局それは、早めに解決を図ることにつながります。結局その方が、長い目で見て心も周りも安定する。
アティーシャの教えは、もっと社会全体の大きな意味のように感じますが、いずれにしても、ネガティブに目を向けないとか、避け続ける在り方よりは、「ネガティブが来たな!」と思ったら、それを解決していける生き方を目指したいものだと思います。
「ネガティブを一旦吸い込み、浄化して吐き出す生き方」。ありたい姿の一つだと感じました。
◯「常に三つの全般的な要点に気づいていること」
①瞑想状態の規則性(注意深く気づき続ける状態)
②非本質的なことで時間を浪費しないこと
③あなたの過失や過去の誤りを合理化してはいけない
◯「欠点について論議しないこと」
・マインドは、他人の欠点について議論する傾向がある。それはエゴをいい気分にさせる。他人の欠点について話す。それについては話すだけではなく、それを大袈裟にし続ける。だからお喋りすることには、とても多くの喜びがある。
・なぜ人々は、他人の噂話に、粗探しに、他人の中に抜け穴と欠点を見つけることに、とても興味があるのか?それは、自分たちに良い感じを与えてくれる助けになるから。「私ははるかにマシだ」。そこには動機がある。基本的な理由は、「もし他の人たちが非常に醜いなら、私は美しい」というもの。
◯「一貫させてはいけない」
・一貫させるということは、過去に従って生きるという意味。過去に従って生きるのは、生きることでは全くない。一貫させるということは、今、もうこれ以上の人生はない。既に終止符に来ていると、あなたは既に決めてしまっているという意味だ。
・川は現象を一貫させられない。ただ池だけが一貫させることができる。池は流れていないからである。自然による流れは、まさに変化せざるを得ない。新しい状況に、新しい挑戦に直面せざるを得ない。
・矛盾のない人は論理的な人だ。彼の生は一次元的なものだ。彼は計算に生きる。彼は論理に従う。もし何かが論理に反するなら、彼は単純にそれをみることを避ける。彼はそれが存在しないように見せかける。なぜならそれが彼の論理を非常に掻き乱しているからだ。論理的な人は世界で最も乏しい。生は論理だけではなく、愛でも成り立っているからだ。そして、愛は不合理だ。
→最後にある「論理的な人は、論理に反することを見るのを避ける、世界で最も乏しい人だ」というところは、ビジネスにありがちな状況で、「説明責任」という言葉がついてくるところに生きる人(生きる時間)に起こる現象。しかし、人生全体が論理的である必要があるのだろうか?ビジネスでも同じことを感じます。矛盾を乗り越えた先に新しい景色があり、矛盾をどうやって乗り越えていくか、ここに知恵とエネルギーを注いでいるのは、今の私の生き方であるが故に、その一側面を言ってくれているこの箇所は、さらに深掘りしたくなるところです。