『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健)(〇)<3回目>
アドラー流コーチングを学び始めたせいか、3回目にしてようやく言いたいことが分かってきた気がします。大ヒットした本書ですが、1回目、2回目は腹落ちすることなく、どちらかというと青年の気持ちに共感していましたが、ここにきて哲人の言いたいことが見えてきました。繰り返し読むことも、関連することを学ぶことも、いずれ繋がってくるのだと実感します。
(印象に残ったところ‥本書より)
〇アドラー心理学では、過去の原因ではなく今の目的を考える。
・アドラー心理学ではトラウマを明確に否定する。
・経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する。
・我々はみな、何かしらの目的に沿って生きている。それが目的論。
・過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味付けを施すかによって、現在のあり方は決まってくる。
〇大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか
・怒りとは出し入れ可能な道具。
・性格は変えられないものだというニュアンスがあるかもしれないが、世界観であれば変容させていくことも可能。
・「もしも何々だったら」と可能性の中に生きているうちは、変わることなどできません。なぜなら、あなたは変わらない自分への言い訳として「もしもYのような人間になれたら」と言っている。
〇勇気づけ
・まずは「今の自分」を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気をもってもらうこと
・対人関係の中で傷つかないなど、基本的にあり得ません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷がつくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。
〇見かけの因果律
・本来は何の因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
・胆順に一歩踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみを犠牲にしてまで変わりたくない。つまりライフスタイルを変える勇気を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽なのです。
〇健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。
〇そもそも主張の正さは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまう。
〇アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定する。
・アドラーは賞罰による教育を厳しく批判した。賞罰教育の先に生まれるのは、「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という誤ったライフスタイル。
・承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人で会ってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、本当の自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。
・他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
〇課題の分離
・我々は「これは誰の課題なのか」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある。
・およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の加地あに土足で踏み込まれること、によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで対人関係は激変するでしょう。
〇常識へのアンチテーゼ
・原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること、人の悩みはすべて対人関係の悩みだと考えること、承認を求めないこと、課題の分離。
〇この人は私に何を与えてくれるのかではなく、私はこの人に何を与えられるかを考えなければならない。それが共同体へのコミット。考えるべきは、より大きな共同体の声を聴けという原則。
〇他社から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「私は他者に貢献できている」と思えること。そこで初めて、我々は自らの価値を実感することができる。
〇貢献感を得るための手段が「他社から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるを得ない。もし本当に貢献感が持てているのなら、他者からの承認はいらなくなる。承認欲求に捉われている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。