『世に棲む日日』(司馬遼太郎)(一)~(四)<2回目>
吉田松陰、高杉晋作を描いた全4巻。久しぶりに本棚で目にとまり、吉田松陰を中心に振り返ってみようと、再読してみました。幕末、揺れに揺れた長州藩において、情熱と思想の象徴的な人物たち。司馬遼太郎の名文と相まって、現代にもたくさんの示唆があります。
(印象に残ったところ‥本書より)
〇かれらの初等教育はすべて畑でおこなわれ、一度も机のうえで行われたことがなかった。初等教育の教課内容は、四書五経であった。
〇松陰の場合、かれの自覚を濃厚にさせたのは、生徒であると同時に八歳のときから藩学明倫館の教授見習いであるという片面をもっていたことであった。名目だけでなく、九歳からは実際に明倫館にのぼって講義をした。自分の講義を充実させるためには懸命に学ばなくてはならなかった。かれは彼の官設家庭教師の家をまわりながら講義ノートを作った。
〇わずか十八歳、それも身分の低い青年が、藩校の制度をすっかり変えてしまえと言う重大な改革意見書を藩主にたてまつるというのは他藩ではとても考えられないことだが、当時の長州藩ではむしろ藩庁のほうがたえずそれを求める姿勢をとっていた。こういう空気の流通と陽あたりのよさが、松陰の人間の成り立ちに大きく影響している。
〇「大器をつくるには急ぐべからざること」
速成では大きな人物はできない。大器は晩く成る。
〇大事には大人物も用いよ。小事には小人物をあてよ。それが適材適所というものである。
〇古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる。また、格調の正しい学問ばかりやっていると、実際の世界の動きに疎くなる。
〇学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり、もしくは専門馬鹿、または役立たずの物知りにすぎず、己を天下に役立てようとする者は、よろしく風の荒い世間に出てなまの現実を見なければならない。
〇「地離れて人なし」
かれは人文地理的な観察を重んじ、そういう窓から常に物事を見ようとした。地理好きはいわば彼の癖であったが、これが松陰という青年の思考法の要素をなしていた。
〇人文地理的発想法
人は地理的環境に制約されている。まず地理的環境を詳しく見れば、そこに住む人間集団のだいたいがわかる。その人間集団~社会の解明を離れて、事柄というものは出てこない。ゆえに、社会と社会現象を見ようとすればまず地理から始めねばならない。