『この国のかたち』(全6巻)(司馬遼太郎)
本書は、雑誌「文芸春秋」の巻頭に1986~1996年まで10年間連載された随筆集です。現在の日本の思想や原形にまつわるさまざまなテーマについて、歴史的視点から綴られており、大きな時代の流れの中で現在を捉えることができます。少し客観的に考えてみたり、現代の特殊性?を感じたり、変わらない本質を見つけたりと、様々な楽しみ方ができます。この国で生きる者として、一度は読んでみて、何かしらを感じてみるのは、とても意味深いことだと思いました。
(印象に残ったところ‥本書より)
〇「名こそ惜しけれ」
日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどり始めるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころとする”百姓”の政権が誕生してから。私どもは、これを誇りにしたい。土着の倫理。「名こそ惜しけれ」。恥ずかしいことをするなという坂東武者の精神は、その後の日本の貴族階級に強い影響を与え、今も一部のすがすがしい日本人の中で生きている。
〇統帥権の無限性
日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。ここに大群衆が登場する。講和条約反対の国民大会。調子狂いはここから始まった。この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったか。昭和ヒトケタから同20年の敗戦までの10数年は、長い日本史の中でも特に非連続の時代だった。
統帥権は、無限・無謬・神聖という神韻を帯び始める。他の三権から独立するばかりか、超越すると考えられ始めた。しかも統帥機能の長は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼の責任を持つ。天皇は、憲法上、無答責である。である以上、統帥機関は、何をやろうと自由になった。
〇明治の平等主義
明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険から救い出すというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった。金融業は、鴻池を残して、他は一夜で丸裸になり、路頭に放り出された。
〇識字率
江戸中期以後の日本の識字率はあるいは世界一だったかもしれない。聖賢の書を読むためではなく、農村や町方の子供が、奉公したときに帳付ができるように願ってのこと。
〇江戸期の多様さ
300近くあった藩のそれぞれの個性や多様さ。江戸期は日本内部での国際社会ではないかとさえ思えてくる。江戸期は大藩より小藩のほうが精度の高い学問をした。士族の教育制度という点から見ても江戸期は微妙ながら多様だった。その多様さが明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだといえる。
〇藩の変化
江戸末期には各藩とも藩をもって公器と見、法人と見る気分が濃くなっていた。最後の将軍である徳川慶喜からしてそうだった。彼らは天下は天下のもので、徳川家の私物ではないという思想をもっていたからこそ、肩の荷物をおろすようなあっけなさで、一回の評定で大政奉還をした。
〇室町の世
コメを基盤とする北朝派(幕府派)に対し、南朝派はゼニを基盤としていたかのようなにおいがあった。要するに、日本史は室町時代から、ゼニの世が始まった。
〇普遍性
律令制、廃藩置県。両方とも”今から始まる世が、世界の普遍的な文明なのだ”という国民的気分があって、みなやむなく従ったものかと思える。島国だけに、普遍性へのあこがれが強い。奈良朝の国家も平安朝の国家も、律令制ということでは変わらない。律令制とは、日本国の農地がみな公地であり、日本国の民がみな公民であること。一種の社会主義国であった。
〇原形について
あたりまえのことだが、他国については、自国の尺度で見ればすべて間違う。国、あるいは社会または民族というものに2つのものなど存在しない。他国を知ろうとする場合、人間はみな同じだ、という高貴な甘さが無ければ決してわからないし、同時に、その甘さだけだと、みな間違ってしまう。一つの国、あるいは民族は、自然及びあらゆる歴史的条件の巨細とない集積の結果である。
連載ものをまとめた著書だけあって、話題はコロコロと変わります。でもそれが全6冊読んでみると、いろいろ繋がってくるおもしろさ。著者が司馬遼太郎さんだけに、まず間違いないシリーズです。歴史小説とはまた違ったおもしろさがありました。