『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル)(〇)
企業家リーダーシップ(Day2)で、ネルソン・マンデラ氏の研究を行ったときに、クラスメイトの方の、「『夜と霧』を思い出した」という一言が印象的だったので、読んでみることにしました。
本書は、アウシュヴィッツ収容所の支所に収容された心理学者の記録です。収容所内での人間の心理面に着目した描写は、生々しく、極限状態における人間の本質が表現されており、本書の帯にある、「ためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」という言葉に表れているように、衝撃の内容でした。
(印象に残ったところ‥本書より)
〇生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。とにかく生きて帰ったわたしたちは、みんなそのことを知っている。私たちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。
〇夜になって、わたしたちは人差し指の動きの意味を知った。それは最初の淘汰だった。生か死かの決定だったのだ。それは私たちの移送団のほとんど、およそ90%にとっては死の宣告だった。
〇やけくそのユーモアと好奇心。生命がただならぬ状態に置かれたときの反応としてのこの心的態度を、別の場面で経験したことがあった。世界をしらっと外から眺め、人々から距離を置く、冷淡といってもいい好奇心が支配的だった。
〇感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、収容者の心理的反応のだに段階の徴候。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。
〇精神的に追い詰められた状態で、露骨に生命の維持に集中せざるをえないというストレスのもとにあっては、精神生活全般が幼稚なレベルに落ち込むのも無理はないだろう。願望や野心の幼児性は、被収容者の典型的な夢にはっきりとあらわれた。
〇人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、私は理解した。
〇収容所内で繰り広げられるありとあらゆる嗜虐行為を長年、見慣れてしまったために、薬の服用量がだんだん多くなるのに似て、すっかり鈍感になっていた。
〇解放されて、「自由になったのだ」と何度も自分に言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞる。だが、おいそれとは腑に落ちない。自由という言葉は、何年ものあいだ、憧れの夢のなかですっかり手垢がつき、概念として色褪せてしまっていた。そして現実に目の当たりにしたとき、霧消してしまったのだ。野原いちめんに花が咲いている。そういうことはよくわかる。だが、「感情」には達しない。
まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならない何かになってしまっていた。心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。
読み終えたとき、そして、このブログを書いている今、何とも言えない感覚で言葉になりません。こうした歴史があったという認識。そこに関わった人々の感情。消化するには時間がかかりそうです。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
- メディア: 単行本
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