『物語シンガポールの歴史』(岩倉育夫)
グローバル・パースペクティブDay1の授業で取り上げられたシンガポール。東京23区と同じくらいの面積に540万人(うち永住者380万人)が暮らす国です。
本書では、200年前までジャングル同然だった無人島がイギリスの植民地になり、第二次大戦後に独立。急速に発展し、一人当たり国民所得世界第3位の都市国家にどのように成長したのかがまとめられています。
(ポイント‥本書より)
〇イギリス植民地時代(1819~1941年)
・インド~中国の海洋の燃料補給基地としてイギリスが植民地化(1819年)
・もともと土着民が皆無に近く、現在の住民はほぼ全員が19世紀以降の移民者の末裔
・異なる民族間の争いを避けるため民族別に棲み分け、分割統治とした。
(マレー人、中国人、アラブ人、インドネシア人などが居住)
・中継貿易の発展:開港から1年ほどでマラッカを凌駕して、東南アジアを代表する中継貿易港になった。
・マレーシア経済との一体化:マレーシアのスズ、ゴムの加工、輸出基地
〇日本による占領時代(1942~1945年)
・シンガポールを昭南島(昭和の時代に得た南の島の意)と称して統治。
〇自律国家の模索(1945~1965年)
・イギリスは、シンガポールが軍事的経済的に極めて重要であると考え、マレーシアと切り離し、再統治(独立国家シンガポールの伏線)。
・英語教育集団:イギリスの一員としては受け入れられず、シンガポールが自分の帰属する社会であるという意識が確立し、独立運動の担い手集団の一つとなった。この集団を代表するひとりが、リー・クアンユー。
・リー・クアンユーが仲立ちし、英語教育グループと共産系グループが手を握り、人民行動党が選挙で勝利。リー・クアンユーが首相就任(35歳)。
・1963年、マラヤ、シンガポール、サバ、サラワクの4つの地域が合体してマレーシア連邦が誕生。シンガポールにとっては、マレーシアは格好の国内市場であり、マレーシアの工業基地となることで経済発展を進めようとした。しかし、シンガポールの華人とマレー人の民族衝突が懸念され、1965年マレーシア連邦から追放される。シンガポールはマレーシアの後背地なしには生存できず国家存亡の危機へ。
〇リー・クアンユー時代(1965~1990年)
・経済発展が最高かつ唯一の国家目標に設定され、政治・社会・文化はそのための手段と考えられた。
・政府対抗集団、マスメディア(外国メディア含む)の国家管理。人民行動党の国会独占。リー・クアンユーの理想は野党ゼロ議席(実際は77議席/79議席確保)。
・1966年、イギリス軍撤退を発表。シンガポールの安全保障を支え、GDPの20%、雇用の10%を占めていたイギリス軍が72年末までに撤退。更なるピンチ。
・マレーシア市場を失ったため、輸入代替型から輸出志向型に転換。そのうえで、政治社会を安定させて投資環境を整えることに注力。
・経済開発庁(EDB)の再編、ジュロン開発公社(JTC)の設立、さまざまなインセンティブを盛り込んだ経済拡大奨励法制定、低賃金労働力を目当てに進出する外国企業のために政府が労働者の賃金を決める権限を持った「全国賃金評議会」設立。
・有能な官僚を確保するため、教育制度の主眼が成績優秀な生徒を選別してエリート教育を実施。
・労働者の退職年金に相当する中央積立基金制度を利用して、開発資金とした。
・二言語政策:英語教育は欧米の自由主義思想を習得させ、権威主義的な人民行動党批判んつながると考え、アジア人としてのアイデンティティを植え付けるため、母国語のマレー語と英語の両方を学ばせた。
・住宅開発庁(HDB)を創設。中央積立基金の預金を住宅購入資金に充てる施策を導入し、持ち家比率を90%にまで高めた。
〇ゴー・チョクトン時代(1991~2004年)
・『ネクストラップ』:経済発展の課題は達成したので、今後は芸術やスポーツ振興にも取り組む。
・外国人労働者の活用も本格化。外国人労働者の比率に上限を設定。民族バランスを壊さないために外国人労働者はアジア系民族に限定。
〇リー・シェンロン時代(2004年~)
・リー・クアンユーの長男。
・人民行動党は、厳しい政治が必要と説いてきたが、豊かな時代に生まれ育った若者に受け入れられることは次第に厳しくなってきた。
・マスメディアのほか、インターネットを利用した政治的意見の表明も規制。
・2011年、リー・クアンユーが国家運営の表舞台から引退(88歳)
50年近く政治の実権を握ったリー・クアンユーのリーダシップが光る内容でした。リー・クアンユーについては、たくさん書籍が出ているので、1冊読んで理解を深めたくなりました。