2002年発行の本書。互いにリスペクトするお笑いの天才のお二人が、対談形式ではありませんが、それぞれが交互にコメントしていくスタイルで、笑いの哲学、人生哲学を語る内容的です。特に、笑いの哲学には、聞く人の心理と自分のやりたいことについて、どう考えるか、価値観や心理学的な観点が言葉からにじみ出てくる感じで、そこに引き込まれる感じがして、とても興味深い内容でした。
(印象に残ったところ・・本書より)
松本もマニアックであることは同じだが、僕とは微妙な違いがある。僕の笑いはかなり計算されているのだ。僕は計算し尽くしてしゃべっている。しかし、計算して時代に合わせているからこそ、その分だけインパクトが弱くなる。合わせるには、いまの時代の流れを見ながら、そこに自分を持っていかなきゃいけない。その分だけコンマ何秒かもしれないが、微妙にタイミングが遅れるのだ。
それでは出会い頭の、強烈なインパクトは生まれない。そこが松本とは違う。
あいつの場合は、時代に合わせようとしていない。僕とは笑いに対する喜びが違うのだ。僕は時代を読んで、その読み通りに自分の作った笑いが受け入れられることに喜びを感じてきた。
ところがあいつの場合は、物理学者か何かのように、ノーベル賞でも取ろうとしてるんじゃないかというくらい、純粋に笑いというものを突き詰めていく。その突き詰める過程で、まるで出会い頭の事故のように、時代にぶち当たったのだ。だからあれだけのインパクトが生まれるのだ。松本の人気は、その(笑いの)科学と時代の衝突が生んだ、一つの軌跡なのだ。
◯松本人志:独自のテンポをどうやって身につけたか
僕らの漫才は発想で笑わす漫才。それまでまりというか、ほとんどなかった笑だ。だからずっと漫才を聞いてきた人たちには、特に分かりにくかったはずだ。その発想のおもしろさを年上の人たちに少しでもわかってもらうには、話をちょっとツブ立てる、というか分かりやすくいえば、ゆっくりしたテンポで話さなければならない。そういうことを頭で考えたわけではないが、毎日舞台に立っているうちに、自然とカラダで感じるようになって、それがいつの間にか自分らのテンポになっていったんじゃないだろうか。
僕らは素人だった。素人にちゃんとした漫才ができるわけがない。浜田と初めて二人でやったときに、それが身に染みて分かっていた僕たちは、紳助竜介の漫才をコピーし始めた。その紳助竜介の漫才を、あの花月という劇場で、さらに自分たちの笑いの性質に合った、自分らなりの漫才に仕上げていったということではないだろうか。
◯島田紳助:笑いのシステム
竜介とコンビを組んで漫才をやり始めたら(島田)洋七さんに怒られた。「ネタをパクるな」と。でも他の人にはそれがわからなかった。洋七さんだけが気づいた。
それは、正確にいうなら、僕がパクっていたのは洋七さんのネタではなかったからだ。僕がパクっていたのは、洋七さんの”笑いのシステム”だったのだ。
そのやり方は例えばこうだ。
まずB&Bの漫才をテープに録って、それを全部紙に書き出す。それから、その漫才がなぜおもしろいのか、他の漫才とどう違うのかということを分析していく。そうすると、一つのパターンが見えてくる。
そのパターンに、僕は全く違うネタを当てはめていったのだ。ネタは全く違うわけだから、誰も僕が洋七さんの真似をしているとは思わない。でもさすがに、あの人だけは、僕がパターンをパクったということに気がついたという訳だ。
◯島田紳助:漫才の分析ノート
18歳で師匠に入門した僕は、自分で「漫才教科書」というものを作って、裏表紙には1000万円と書いてある。それだけ値打ちのある教科書という意味なのだが、考えてみれば、その何十倍もの価値あるノートだった。
前の舞台を考えずに、その日の舞台だけを見て、感じたことを書く。漫才の内容を端から書き留めて、さらに、良いと思う部分には青線を引き、悪いところには赤線を引いていく。そういうことをいろんな漫才師についてやった。
ずっと同じ漫才をやっているようでも、三ヶ月も経ってみれば少し変化がある。さらに三ヶ月過ぎたらまた変わる。この漫才師がどう成長していっているのか、青い線と赤い線の色の具合で、良くなっているのか、悪くなっているのか、それが見えてくる。つまり18歳の僕がそのノートをつけていたのは、単純に青線だけを集めたら、完璧な漫才ができるんじゃないかと考えたからだ。同様に赤い線の部分も役立つ。そこを見れば、自分が絶対にやってはいけないことがわかるのだ。
もっとも青い線を集めるといっても、その全部が自分にできるわけではない。どれができて、どれができないか。それを正確に見極めるためには自己分析が必要だ。自分は何が優れているのか。何ができるのか。その反対にどういうことはできなくて、またやっても意味がないか。そういう自己分析を徹底的にやって、それもノートに書いていた。そしてその自己分析と、青線を照らし合わせて行くのだ。
さらに、売れるためには時代も分析しなければならない。時代というのはいつも動いているものだから、先を読まなければ、時代に合ったものは作れないからだ。
これからの笑いとはどういうものか。どういうツッコミのカタチが今後はウケるだろうか。エンタツアチャコの時代の漫才から、現在の漫才までずっと順を追って見ていくと、どんどん漫才が変わってきているのがわかる。今ある漫才を繰り返しても勝負には勝てない。その変わっていく延長線上医、僕のやるべき漫才があるはずなのだ。そういう分析を夢中になってやっていた。
◯松本人志:自分の顔の数
僕は番組というものは、自分の顔の数以上にやってはいけないと思っている。いっぱいレギュレー番組を持っている人もいるけれど、どれもこれも、みんな自分の同じ顔で出てたりするのを見ると、どういうつもりなのか僕には理解できない。
「みんな一緒やんけ」と思ってしまう。あっちこっちの番組で、自分お同じ顔を見せてもしょうがない。自分の顔の数だけ番組を持つというのが、僕の理想なのだ。
◯松本人志:聴覚の芸人
僕はどういう芸人かというと、基本は視覚芸人ではない。聴覚の芸人だ。ただここからが、うまく表現するのが難しいのだが、僕の笑いというのは耳で聞いてから、聞いたことをいっぺん頭の中で絵に思い浮かべて笑う、という性質のものなのだ。
内面的な視覚というか、想像力に訴える笑いというか。だから僕の話は、聞いた人が頭の中で絵を描いてくれないと、笑えない。
聴覚に直接訴えるインパクトのある笑いか、聴覚経由で想像力に訴えるというまだるっこしい笑いか、それが紳助さんと僕との違いということになる。そして、その違いこそが、二人のど偉い才能ってやつなのだ。
他にも興味ふかい話が山盛りです。尖った人の発想の裏側を知れるのは、読んでいてもワクワクします。真似ができるわけではないけれど、「そんな発想もありなのか〜!」「へー」「ほー」が連発する。文庫本で600円にも満たない価格で手に入る本書は、お得です。