『大学』(宇野哲人)
四書五経の四書のひとつ『大学』。著者ははっきりしていないようです。五経の『礼記』の一篇だったものを分離独立したもので、儒教の政治思想の根幹を要領良くまとめた内容になっています。あの二宮金次郎が薪を背負いながら読んでいる本がこの『大学』です。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯宋朱熹章句
・子程子曰く、『大学』の書は、孔子が詳かに次第を挙げて説き示し、後人に遺したまえるもので、初学者よってもって徳に入るの門戸である。今の世にありて、古人の学問をなしたる順序を見ることができるのは、ただ独りこの一篇の存せるがためである。しかして『論語』『孟子』はこれに次いで必要の書である。学者は必ずこの『大学』に由って学べば誤らざるにちかいであろう。
◯第一章
・「大学の道は明徳を明らかにするに在り、民を親(あら)たにするに在り、至善に止まるに在り」
・徳は得にて、人の天より得るところをいい、明はその徳の光明赫奕(こうみょうかくえき)たるを形容する語。
・大人の学は必ずこの至善の地に至ってしかして止まらねばならぬ。この明徳、親民、止至善の3つはすなわち『大学』の三綱領である。
◯大学の8条目
【親民】
①平天下
②治国
③斉家
【明徳】
④修身
⑤正心
⑥誠意
⑦致知
⑧格物
・天下の本は国にあり、故に古の人君、天下の人をしてみなその明徳を明らかにせしめんと欲すれば、必ずまず教化をもってその一国の人を治め、みな善に従わしめ、四方をして観て感動せしめる。
・国の本は家にあり、故に一国の人を治めんと欲すれば、必ずまず己の一家の人を斉(ととの)え、長幼尊卑各々その宜しきを得しめ、国人をしてこれに則るところあらしめる。
・家の本は身にあり、故に家を斉えんと欲すれば、まず自己の身を修めて喜怒好悪みな宜しきを得てもって家人の模範となる。
・己の身を修めんと欲すれば、まず一身の主たるところの心を正しくして、少しも偏頗(へんぱ)なからしめる。
・その心を正しくせんと欲するには、まず心の発するところの意について、誠実にして少しも自ら欺くことなからしめる。
・その意を誠にせんと欲するには、まず知を推し極めて善悪の弁別に惑うことなからしめる。
・知を推し極めるためには、すなわち大学の教科たる六芸(礼・楽・射・御・書・数)を研究してその道理を窮めるにある。
◯修身
・上は天子より下は庶人に至るまで、一切みな修身をもって本とする。我が身修まらずして、家の斉い、国の治まり、天下の平らかならんことを欲するは、その本乱れて末の治まらんことを望むものにして、必ずその理なし。家をもって国天下に比すれば、みな当(まさ)に愛すべきところなれども、家は厚く国天下は薄し、もし身を修めてもってその家を斉うること能わずんばこれ恩、己の骨肉に及ばざるものにして、厚うするところのもの薄いのである。
◯正心
・いわゆる身を修むるはその心を正すにありとは、もし心に忿怒の情あれば、心が忿怒に動かされてその正しきを得ず、恐懼の情あれば、心が恐懼に移されてその正しきを得ず、好楽の情あれば、心が好楽に溺れてその正しきを得ず、憂患の情あれば、心が憂患に苦しみその正しきを得ない。その忿怒、好楽、憂患はみな人の心の免るべからざる感情であるが、事物に接するときこれらの情があれば、よくこれを察してその適度を失わぬようにせぬと、ままそのために蔽われて心の働きが正当を失うのである。心その正を失えば、身もまた修まらず。故に身を修むるには、心を正しくして、これらの情のためにその正を失わぬようにせねばならぬ。
◯絜矩の道(己を推して人に及ぼし思いやる忠恕の心)
・上の我を使うに無礼なるを悪めば、必ずこれをもって下の心を度(はか)リテ、下を使うためにあえて無礼をもってせぬようにする。
・下の我を事うること不忠なるを悪めば、必ずこれをもって上の心を度りて、またあえて不忠をもって上に事えぬようにする。
・前人の我に対する善からざるを悪めば、必ずこれをもって後人の心を度りて、同じ不全をもって後人に対せぬようにする。
・後人の我に接する不善なるを悪めば、必ずこれをもって前人の心を度りて、同じ不善をもって前人に接せぬようにする。
・右の者の我に対する不善を悪めば、必ずこれをもって左の者の心を度りて、同じ不善をもって左に交わらぬようにする。
・左の者の我に対するの不善を悪めば、必ずこれをもって右の者の心を度りて、同じ不善を右に交わらぬようにする。
本編だけなら70ページにも満たないボリュームでありながら、とても深い示唆が得られます。一方、解説書が少ないのは実体験や歴史的事実に当てはめずらいのかもしれません。本書を解説した書籍として、『人物を創る』(安岡正篤)、『己を修め人を治める道』(伊輿田覺)の2冊は参考になると思います。