『人間を磨く』(田坂広志)<2回目>
「人間関係を磨くとは、非のない人間を目指すことではない」。本書は、「非も欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点から、「人間を磨く」ということの意味を語り、そのための具体的な技法について語られています。「知識とは風船の如きもの」であり、膨らめば膨らむほど外界と接する表面積が増えるように知識が増えるほど未知と接する表面積が増えて行く。「人間もまた風船のごときもの」であり、人間として成長すれば成長するほど、人間として目指すべき高みが見えてきて、自分の未熟さを痛切に感じるようになる。自分の方向性を考える上でも、立ち止まって現状認識をする上でも示唆の多い一冊です。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯古典を読むときの「読み方」の誤解
①理想的人間像を学ぼうとしてしまう
→大切なのは、「いかにして人間として成長して行くか」という「具体的修行法」を学ぶこと。
②「我欲を捨てる」「私心を去る」と言った言葉を表面的に受け止めている
→心の中の「小さなエゴ」は捨て去ることはできない。「小さなエゴ」は時に「小さなエゴを捨てた高潔な人間の姿」を演じて、満足を得ようとすることさえある。「小さなエゴ」に処する方法はただ一つ。ただ、静かに見つめること。
③一つの理想的な「統一的人格」を心に描き、その人間像を追い求めてしまう
→我々の中には「幾つもの人格」があり、仕事や生活の場面や状況に応じて、我々はそれら人格を使い分け、処している。大切なのは、自身の中にある「鬼」や「悪」と呼ぶべき部分から目を背けることなく、その存在を認めつつ、それらの人格を御して行くことのできる「もう一つの人格」を育てて行くこと。
◯難しい人間関係に直面した時が、人間を磨く最高の機会
人間関係に処するときの「心の置き所」。そのための「人間関係が好転する7つの『こころの技法』」
①心の中で自分の非を認める
②自分から声をかけ、目を合わせる
③心の中の「小さなエゴ」を見つめる
④その相手を好きになろうと思う
⑤言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす
⑥別れても心の関係を絶たない
⑦その出会いの意味を深く考える
◯心の中で自分の非を認める
・人は、非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非がない、欠点がないと思い込むとき、周りの人の心は離れていく。
・もし我々が、自分の非や欠点がゆえに、相手や周りの人々に迷惑をかけたとしても、心の中で自分に非や欠点があることを自覚し、自分の非や欠点を相手や周りに対して認めることができるならば、人間関係は、決しておかしくならない。また、それができるならば、それだけで、こじれた人間関係が良くなっていくことさえある。なぜなら、仕事や生活において人間関係がおかしくなるときとういうのは、必ずと言ってよいほど、互いに「相手に非がある」「自分に非はない」と思っているから。
◯自分から声をかけ、目を合わせる
・自分の非を認め、自分から声をかけ、謝ることができたとき、ほとんどの場合、相手もまた、自分の非を認め、謝る姿を示す。「相手の姿は、自分の姿の鏡である」。
・互いが和解する瞬間とは、ただ、人間関係が元に「修復」される瞬間ではなく、互いが、さらに深いところで結びつく「深化」の瞬間である。
・誰かと意見がぶつかり、感情がぶつかり、心が離れたとき、我々の「表層意識」の世界では、相手に対する批判や非難、反感や嫌悪感などの感情が動いている。しかし、実はその一方で、「深層意識」の世界では、①自分に対する嫌悪感(自己嫌悪)、②相手に対する不安感(他者不安)の感情が動いている。
・人間の心には、自分の過去の選択や行為を「正当化」しようとする傾向がある。「他者不安」の感情を抱くと、無意識に防衛本能が働き、「自己防衛」に向かい、その相手に対して、ますます批判的になり、ますます攻撃的になっていく傾向がある。
◯心の中の「小さなエゴ」を見つめる
・自分の非を認めることができないときは、自分の心の中で、「小さなエゴ」の「自分は正しい」「自分は優れている」「自分は変わりたくない」という声が、「大きなエゴ」の声に勝るとき。逆に、素直に自分の非を認めることができるときは、「大きなエゴ」の「自分の至らぬところを認め、さらに成長していこう」「この未熟さを超え、人間としてさらに成熟していこう」という声が「小さなエゴ」の声に勝るとき。
・心の中で「自分に責任があったのではないか?」「自分に問われていることがあるのではないか?」と問う「引き受け」。この「引き受け」という心の姿勢で処することは容易ではないが、もし我々がその心の姿勢を大切にして人生の問題に処していくならば、我々は確実に一人の職業人として、一人の人間として成長できる。逆に我々が成長に壁に突き当たるときは、この「引き受け」ができていない。
◯その相手を好きになろうと思う
①本来、「欠点」は存在しない。「個性」だけが存在する。
・我々は「長所」と「欠点」を論じるとき、自分にとって好都合なものを「長所」とよび、しばしば自分にとって不都合なものを「欠点」と呼んでいる。
②嫌いな人は実は自分に似ている
・相手の姿の中に自分でも嫌いな「自分の欠点」を見ると、それを認めたくないため、その相手をますます嫌いになるという心理がある。
③共感とは、相手の姿が、自分の姿のように思えること
④相手の心に「正対する」だけで関係は良くなる
⑤相手を好きになろうとすることは、最高の贈り物
◯言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす
・「心が動く→言葉を語る」という性質だけでなく、「言葉を語る→心が動く」という性質もある。
・人は相手を嫌いになるから、嫌悪の言葉を語るのではない。嫌悪の言葉を語るから、相手を嫌いになるのだ。
・人は相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。好感の言葉を語るから、相手を好きになるのだ。
◯別れても心の関係を絶たない
・「愛情」とは、関係を絶たないこと
・「愛情」の反対は「憎悪」ではなく「無関心」
・「人間関係が下手な人」とは「人とぶつかってしまう人」のことではない。「人とぶつかった後に和解できない人」であり、「人とぶつかった後に、若いの余地を残せない人」のこと。
◯その出会いの意味を深く考える
我々の人生において「不幸な出会い」と思えるものを「意味のある出会い」に転じ、さらに「有り難い出会い」に転じて行くためには、「その出会いの意味を深く考える」ことを通じて「人生の解釈力」を身につけ、磨いていかなければならない。
・この人との出会いを通して、そして、この痛苦な体型を通して、
いま自分が人間として成長するべき課題は何か?
いま何を学べと言われているのか?
いま何を掴めと言われているのか?
・自分はいつ人間として成長することができたか?
・人間として成長できたのは、どのような体験においてであったか?
・その体験は、決して楽しい体験ではなく、痛苦な体験ではなかったか?
・その痛苦な体験は、人間との出会いによって与えられた体験ではなかったか?
・この人物との出会い、この痛苦な体験が与えられたのは、自分がいかなる成長を遂げるためなのだろうか?
田坂広志さんシリーズは、私にとって貴重な内省本シリーズ。読み返すとまたその時の状況に応じて新たな気づきが得られ、成長のステップアップと今の課題を感じます。