『読書について』(ショーペンハウアー)
著者(1788-1860)は、ドイツの哲学者で、1820年にベルリン大学の講師となったが、当時ヘーゲルが全ドイツを席巻。人気絶頂のヘーゲル正教授に圧倒され辞任し、在野の学者となった人物。こうした背景もあり、ヘーゲルを含めが学者に対する批判精神がストレートに書かれている作品です。よくここまで、人も作品も名指しでズバッと批判するもんだなと。一方で確かにその通りと考え方に頷く面も多くあります。
内容は、3本立てで、①自分の頭で考える、②著述と文体について、③読書についてとなっています。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯「自分の頭で考える」より
・自分で考える人は、まず自説を立て、後から権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。しかし博覧強記の愛読家は文献から出発し、本から拾い集めた他人の意見を用いて、全体を構成する。それは異質な素材を寄せ集めて作られた自動人形のようなものだ。
・人生を読書に費やし、本から知識を汲み取った人は、たくさんの旅行案内書を眺めて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。こうしたhとは雑多な情報を提供できるが、結局のところ、土地の実情についての知識はバラバラで、明確でも綿密でもない。これに対して、人生を考えることに費やした人は、その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。そういう人だけがそもそも語るべきポイントを心得、関連ある事柄に通じ、真に我が家にいるように精通している。
・真に能力のある人物の著作を、その他大勢の作品と区別する特徴は、決然たる明確さ、並びに、そこから生まれる明快・明晰さだ。
◯「著述と文体について」より
■物書き
・物書きには2種類ある。テーマがあるから書くタイプと、書くために書くタイプだ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。第二のタイプはお金が要るので、お金のために働く。
■最新刊と原著
・あるテーマを研究しようとしたら、学問は耐えず進歩しており、最新の本には過去の知見が反映されているという誤った前提の元に、最新刊にそそくさと手を出すのは控えるべきだ。確かに過去の知見が反映されている。だがどのように反映されているかが問題だ。しばしば新刊書の著者は、先人をきちんと理解していないくせに、先人の言葉をそのまま引用しようとはせず、先人固有の血の通った専門的知識から書かれた、ずっと優れた明快な言説に手を加えて改悪し、台無しにしてしまう。こうしてしばしば先人の最良の業績、確信をついた説明、この上なく上首尾に書かれたコメントをむざむざと手放す。その価値を見抜けず、その的確さを感知できないからだ。
・できれば原著者、そのテーマの創設者・発見者の書いたものを読みなさい。少なくともその分野で高い評価を得た大家の本を読みなさい。その内容を抜き書きした解説書を買うよりも、その元の本を、古書を買いなさい。
■本のタイトル
・手紙の宛名にあたるもの、それは本のタイトルだ。書名は特徴的なものであるべきだ。回りくどく、ぼんやりした、見当違いで、両義的で、それどころか間違っていて誤解を招く書名はまずい。こうしたタイトルの本は、間違った宛先の手紙と同じ運命をたどりかねない。
■素材と表現形式
・本は著者の思想を印刷したものに他ならない。思想の価値を決めるのは、素材か表現形式だ。素材とは「何について考えたのか」であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、「どう考えたのか」だ。
「何について考えたのか」は、その独自性は客体、モノにあるので、著者が誰であっても、本自体が重要なものになる。「どう考えたのか」の場合には、独自性は主体、ヒトにある。思索の対象は、誰もが親しめる、よく知られた事柄でも良い。だがこの場合、著者がどう考えたのかという把握の形が大切であって、主体が問題になる。
・精神の産物、著作の価値をさしあたり評価するのに、必ずしもその書き手が「何について」「何を」考えたかを知る必要はなく、まずは「どのように」考えかを知れば十分だ。この「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティーを精確に映し出したのが、文体だ。文体はその人の全思想の外形的特徴であり、「何を」「何について」考えていようとも、常に同じはずだ。
■匿名
・匿名の評論雑誌はそもそも、無学が学識をさばき、無知が分別をさばいても処罰されない無法地帯であり、一般読者を欺き、悪書を褒めそやして時間と金をだまし取っても見咎められない場だ。匿名は物書き、特にジャーナリズムのあらゆる悪事の堅固な城塞ではないか。この城塞は根こそぎ取り壊されねばならない。
■力量
・本人が持っている以上の精神性を見せようとする悪あがきこそ、物書きが最も慎むべきものだ。というのも実際には持っていないものに限って、持っているふりをするのは人の常なので、実は精神性などほとんど持ち合わせていないのではないかという疑いを読者に起こさせるからだ。だから著者を「飾り気がない」といったら、それは褒め言葉だ。概して自然で飾らないものは人を惹きつけ、これに対しても何事も、不自然な気取りは、思わず人を尻込みさせる。
・はっきりしない、曖昧な表現は、いつでもどこでも悪い兆候だ。そうした表現になるのは、99%まで考えが曖昧なせいで、ほとんどいつも思想そのものがもともとフラフラと安定せず筋が通らず、間違っていることに由来する。考え抜かれた明快な思想は、ふさわしい表現をたやすく見つける。人知の及ぶものは、実際常に明快でわかりやすく、疑問の余地のない言葉で表現できるものなのだから、ややこしく、はっきりしない、錯綜した、曖昧な文章を作り上げる連中は、自分が何を言いたいのか、きちんとわかっておらず、思想を求めて呻吟しているのをぼんやり意識しているだけだ。
・わずかな思想を伝えるのに、多くの言葉を費やすのは、紛れもなく凡庸の印だ。これに対して多くの思想を少ない言葉に収めるのは、卓越した頭脳の証だ。心理はむき出しのままが、最も美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。そうすれば聞き手は雑念に惑わされずに、スッと心理を受け取ることができるからだ。
◯「読書について」より
・大衆文学の読者ほど、哀れな運命をたどる者はいない。つまり、恐ろしく凡庸な脳みその持ち主がお金目当てに書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。
・人々はあらゆる時代の最良の書を読む代わりに、年がら年中最新刊ばかり読み、一方書き手の考えは堂々巡りし、狭い世界にとどまる。こうして時代はますます深く、自ら作り出したぬかるみにはまっていく。
・「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ。二度目になると、内容のつながりが一層よくわかるし、始末がわかっていれば、出だしを一層正しく理解できるからだ。また二度目になると、どの箇所も一度目とは違うムード、違う気分で読むので、あたかも同じ対象を違う照明の下で見るように、印象も変わってくるからだ。
実に辛口の批評ですが、真理をついており、反論できなければ、やはり認め、取り込む要素が含まれているということだと思います。真理を探求していくという学びは深くなりますね。