『活学講座』(安岡正篤)
昭和を代表する陽明学者で東洋哲学の大家である著者の昭和26年の講義が昭和40年に発行されたもの。「活学」というとおり、まさに学びをどう活かすか、活かすためにどう学ぶかという視点でまとめられています。著者のシリーズは、少し難しいですが、含蓄があり、内省本として秀逸なものが多いと思います。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯学問は人間を変える
・人間というものは、手段的なものや理論的なものでは結局どうにもならぬ、人間は人間の性質を変えるより外に救われる方法がない。
・生というものを感じないような学問は、要するに本当の自反尽己(自責の念を持って、自分の全力を尽くす)の学問ではない。
・単なる知識・技術の教育は本当の教育ではない。
◯人間の本質は特性に在る
・本質的な要素は人間の徳性。附属的要素とは、知性・知能及び技能。もう一つ大事な要素は、習慣。
・これがなければ、人間は人間でない、というものが本質であって、結局それは徳性というもの。人が人を愛するとか、報いるとか、助けるとか、廉潔で在るとか、勤勉であるとか、いうような徳があって初めて人間である。また、その特性というものがあって、初めて知能も技能も生きる。
・学問の本義というものも、自反尽己、その人間そのもの、徳・徳性を養う、練磨するということにある。それには、平生に於て良い習慣をつけるということが大事。
◯道理
・道とか、理とかいうものは一言にして言うと、これがあることによってものが存在し、活動ができ、生きて行くことができる、そういう物事の存在、生活の本質的なものをいう。
・どこへ行くのにも、道に依らなければ、道を歩かなければ、行くことができない。つまり道は実践というものと離れない。理は人間がその知性・知能で解する。理解するものであるが、それを実践するものは道。
・知性・知能によって知るものが理であり、実践によって把握するものが道。知性の対象になるときは理になり、実践によって条件づけられると道になる。そこでこれを結んで道理という。理は理であるが、人間が実践できるもの、実践と一つになっておるものが道理。
◯学はその人の相となり運となる
・我々の思想や学問というものは、理屈っぽいといった段階から、やはり直感的になってきて、物自体を動かす動的な力、つまり感化力のあるものになって来なければならない。そうなるとだんだん具体化して来なければならない。
・本に書いてあるのではなくて、その人の顔に書いてある。それこそ、一挙手一投足、一言一行に現れるようになって来なければならない。その人の人相、その人の人格、或いは言動や思想・学問が別々になっておる間はまだまだ中途半端である。
・真理・学問というものは、その人の相とならねばならぬということである。それが動いて行動になる、生活になる、社会生活になる。これを運という。そうしてこそ初めて本当の学問。
・学はその人の相なり運となる。それがさらにその人の学を深める。相と運と学とが無限に相待って発達する。つまり本当に自己を実現する。
◯心を養えば運も相も良くなる
・結局運というものは相に現れ、相がよくなれば運もよくなる。しかし運を良くしようと思えば、結局心を養わなければならない。心を養うとは学問をすることで、従って、本当の学問をすれば、人相もよくなり、運もよくなる。すべてがよくなる。運も相も結局は学問に外ならない。
・学問・修養すれば自らよくなる。そこで昔から本当の学者聖賢は、相や運の大事なことは知っておるけれども、敢えてそれを説かなかった。その必要がないからである。
・しかも学問には弊害がない。相や運を説くと善悪共に弊害がある。「易を学ぶものは占わず」とはそこを言う。占わないと言うのではない。占って見た処で仕様がない。いづれにしても分かっておるから、占わないだけのことである。
◯人間の現実の5つの境地
①自然的境地。弱肉強食の自然の法則、動物的法則が行われる境地。
②俗に言う、一寸の虫にも五分の魂。かなわないまでも闘争する、暴には暴を以ってするという境地。
③暴力に甘んずるのは魂が承知できぬが、さりとて暴力的に闘争する勇気もないし活力もないというような、知識階級の文弱分子に多い境地。
⑤前述第二の暴力的立場と違って、根底にガンジーや宮本武蔵のような人道的精神を確固として抱きつつ、現実の邪悪に堂々と直面し、あくまでもその罪は憎むが人は憎まない。
◯国づくり:四維ー国維
・国家を維持するためには、礼・義・廉・恥の4つの徳がどうしてもなければならない。これを国の四維という。これを失うと、必ず国は動揺し、混乱し、頽廃し、時には滅亡する。
・礼を営むものが意義・使命を果たしてゆく義。これを無視して、利己的に放縦に活動するのが不義というもので、利と義はここで違ってくる。利というものは、これは利己、私であるが、礼や義というものは、常に全体を予想するわけで、これは公である。これを遂行してゆく場合に人間は必ず、廉、無私になる。従って、そういう精神に立てば、利己的な公に背くような精神・行動に対してよく恥づる、所謂恥を知るのである。
人間の在り方や考え方を磨く学問。それが日々の行動に現れる。そういう風に受け取ったのですが、まさに、「毎日の質を高める」今の活動に通じるものであり、共感できる内容でした。また久しぶりに、安岡正篤記念館に行ってみたくなりました。