「私は安楽死で逝きたい」で2016年に文藝春秋読者賞を受賞された今年92歳になられた著者。夫に先立たれ、子どももなく、親戚付き合いもしていない、会いたい友達や思いを残す相手もいない。あとは他人に迷惑をかけたくないだけ。死に方とその時期の選択くらい自分でできないかと思いから本書も書かれています。今後議論もますます進むかもしれないテーマへの思いとは。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯私の役目は終わった
私はもう、役目を終えた人間だと思っています。終わった人間なのだから、ちゃんと反省もして、いろいろ整理もしておかなければなりません。でもこうした考え方には、個人差があるものです。
『渡る世間は鬼ばかり』のプロデューサー石井ふく子さんとは、一緒に仕事をして50年以上になる仲です。私が死に関する話をすると、石井さんは「そんな縁起でもない話、やめて」とすごく怒ります。
石井さんも私と同様に独り身です。一つ年下ですが、いつまでも生きたい人なんだなと思います。自分の会社を持っていて、スタッフを養って俳優さんの面倒を見ているから、私と違って責任があります。お友達が多いのも、私と違うところ。だから死ぬなんてことは一切口にせず、一生懸命に働くことしか考えていないのでしょう。生き方は人それぞれだとわかっていますけど、私とはえらい違いだなと感じることがしばしばです。
仕事をもらっていたり、雇っている人がいることは、良い意味では生き甲斐になるかもしれません。その反面、自分勝手には死ねないのです。私はそういうふうになりたくはないし、「仕事はいっぱいやったから、もういいわ」と思っています。
◯幸せに最後を迎えるための「安楽死」
病気やケガを治したり、命を救うことは、医療の大切な使命です。しかし今の医療は、「生かす」ことしか考えていないように思えます。「幸せに死なせる」とか「上手に死なせる」ことも、医療の役目ではないでしょうか。
生かし続けることがその人の尊厳を守ることにならず、本人も望まないときは、上手に死なせる医療があるべきだと思うのです。その判断が医療個人に委ねられたり、責任が医者個人に負わされることのないよう、ルールや制度があったらいいのにと思うわけです。
◯価値観の個人差
人さまから見れば、私は幸せに見えるかもしれません。でも自分では特に幸せじゃなくて、「人生もういいや」と思っている。ものごとの価値観には、大きな個人差があるものです。
◯自分の尊厳を守るために
安楽死は、死期を積極的に早めること。尊厳死は、無駄な延命を行わないこと。安楽死は、日本では認められていませんが、世界ではスイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのヨーロッパ各国のほか、アメリカのニューメキシコ、カリフォルニア、ワシントン、オレゴン、モンタナ、バーモントの6つの州で合法です。
尊厳死は、アメリカのすべての州、イギリスやドイツを含むヨーロッパの多くの国、オーストラリアの一部、アジアでも台湾、シンガポール、タイなどで認められています。医療が充実していて、平均寿命が延びた国ばかりですが、これらの国の大半には「尊厳死法」があります。日本では、尊厳死は認められているものの、上記の国々と違って法律がありません。安楽死どころか、その手前の尊厳死を規定する法律さえないのです。
◯消極的安楽死はできる?
法律がない代わりに尊厳死の指針となっているのは、厚生労働省が2007年に発表した「終末期医療の決定プロセスに関する」ガイドライン。2015年には、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」と改訂されました。
内容はなかなか興味深い。最初のところの引用は次の通り。
1.人生の最終段階における医療及びケアの在り方
①医療等の医療従事者から適切な情報の提供と説明がなされ、それに基づいて患者が医療従事者と話し合いを行い、患者本人による決定を基本としたうえで、人生の最終段階における医療を進めることが最も重要な原則である。
②人生の最終段階における医療における医療行為の開始・不開始、医療内容の変更、医療行為の中止等は、多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性をもとに慎重に判断すべきである。
③医療・ケアチームにより可能な限りの疼痛やその他の不快な症状を十分に緩和し、患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及びケアを行うことが必要である。
④生命を短縮させる意図を持つ積極的安楽死は、本ガイドラインでは対象としない。
◯ベッドに横たわって死を待つのはイヤ
現在は患者本人が延命治療を拒否するという意思表示を先に行っておけば、おある程は叶えてもらえるらしいです。
でも私は、それでは不満です。延命治療を止めた後、ひと月くらい生きているとしたら、その間がしんどい。その一月に楽しいことをしたり、美味しいものを食べられるなら別ですよ。
病院にせよ自宅にせよ、ただベットに横たわって死を待つなら、そうなる前に死なせてほしい。緩和ケアをしてもらって痛みはないとしても、死ぬのを待つだけの時間はイヤです。まして、意識のない状態になったら延命措置をされてしまうなど、まっぴら御免です。やっぱり私は、安楽死がいいです。少しでも辛い思いをしないように、一週間でも、二週間でも早く死なせてほしいのです。
◯安らかに、楽に、死なせてください
私が言っているのは、人によっていろいろな考え方があっていい。その人の考え方に応じて、死に方の選択肢があってほしいということです。
自分が世の中の役に立たず、迷惑だけ書けるようになったらと思ったら、私は生きていたくありません。命を奪うのは可哀想と思わず、安楽死させてください。それが私の最後のプライドです。
この人にこれ以上惨めな思いをさせたら、本当に死にきれないに違いない。まだ惨めさの見えない今のうちに死なせてあげることが、この人の幸せだ。そう思っていることが、安楽死だと思います。
安楽死という言葉を使うと、どこか仰々しくなりますね。簡単に言えば私は”安”らかに”楽”に死にたいのです。
著者の主張もなんとなくそういう思いになるんだろうと共感する気持ちもある一方で、実感がない世界でもあり、本当にピンとくる感じはない現状。すでに議論を呼んで、難しい面も多いのでしょうが、すでに海外で先行しているということは、日本でもいずれ導入されるような時代がくるのかもしれません。
「①人は必ず死ぬ、②人生は1回限り、③人はいつ死ぬかわからない。「使命」。その命、何に使いますか?」とおっしゃっていた、田坂広志さんの言葉を思い出しました。今の私にできること。まずはしっかり生きること。使命を貫くこと。