洗心講座(安岡正篤)
『洗心講座』(安岡正篤)
『活学』三部作。『活学講座』に次ぐ第2作目です。『中庸』『老子』『言志四録』『小学』の4章から成り立っています。難しいところもありますが、いずれも講義形式で語られており、内容に比してとっつきやすいと思いました。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯『中庸』章句に学ぶ
・もともと『中庸』とは『礼記』の一部。全ての人がいかに変わらずに、合間って和やかに、調和を保って、進歩向上していくか、その原理を説いたもの。『中庸』は、全ての人間に通ずる誰しもこれに則って、限りなく進歩向上していく永遠の常徳、恒徳という意味。
・中とは天下の正しい道であり、庸とは天下の定まった法則・理法。
・人間は生じい学問や思索をすると、実践から遊離するもの。実践から遊離した道などというものはない。だからそれだけに絶えず開発してゆかねばならない。
・「独」とは、本来は絶対という意味。絶対的な自己を「独」という。根本において独がなければ、我々の存在は極めて曖昧で不安定。
・見識・信念がないと、眼前の現象にとらえられて、どうしても困惑しがち。どうして見識や信念を問うかというと、やはり学ぶ外はない。何に学ぶかと言えば、結局歴史と歴史を通ずる先覚者達の教訓に学ぶことが最も確か。その意味において古典は本当に大きな意義がある。
・六中観
①忙中閑有り(閑は自ら見つけ出してゆくもの)
②苦中楽有り(本当の楽は楽の中にあるのではなく苦の中にある)
③死中活有り(死を観念する中に本当の生がある)
④壺中天有り(楽しみは別世界ではなく、現実の生活、人生の中に発見されるもの)
⑤意中人有り(咄嗟の必要に応じられるように普段から意中に人を持っておく)
⑥腹中書有り(自分に哲学・信念を持っている)
◯『老子』と現代
・仏教の極意などというものは、簡単な理論や概念で把握されるものではない。そういうことではなく、何がために仏教を学ぶか。人間が安心立命して、日々の生活を満ち足りやること。本当に安心して飯を食い、綺麗にそれを片付ける。そういうこともろくろくできないで、仏教の第一義などと頭の先で考えるのは、これは一つの神経衰弱に過ぎない。
①慈(慈しむ心)
②倹(倹約の心)
③けっして天下の人々の先に立とうとしない心
◯『言志四録』と人生
・人間の素質・内容を離れて、形式的にとってくっつけてみたところで、志にはならない。立志にはならない。本人の持って生まれた、本来具備している素質・自覚に即さなければいけない。
・本を読むときには、経書を読むときには、自分が体験するところの人情事変といった現実問題をその注脚とする。つまりそれで解釈する。事に処するときには、聖賢の言語・文章、それを持って注脚とする。そうすると、事と理、現実の問題と心理が溶け合って、学問というものが空虚にならない。
・単なる知識というものはつまらない。知識でもやはり味を持った知識にならなければならない。そのためにはどうしても情緒というものが必要。情緒の豊かな心に育まれて、知識も本当のものになる。
・人間の真価はなんでもない小事に現れる。これについては古今東西いろいろの識者がときに触れて論じているが、真のその通り。
・思考の3原則
①できるだけ長い目で見て、目先に捉われない
②できるだけ多面的に、或いは全面的に見て、一面に拘らない
③できるだけ根本的に考察して、枝葉末節に走らない
⇨ものを目先で、一面的に見、枝葉末節に捉われるのと、結論が逆になることさえある。
・「理到るの言は人服せざるを得ず」。概念や論理等の遊戯のごとき理ではない。所謂情理・道理というところまで突き詰めていった理、そういう理の言葉は人もこれに従わざるを得ない。しかし、その言に激するところがあったり、矯正するところがあったり、胸に一物を持っていたり、何かの手段に使おうとしたりすると、けっして人は福するものではない。そこで、君子は、理到って尚人が服さなければ、必ず自ら反省する。先ず自分が自分に服して、そうしてはじめて人も服する。
◯『小学』の読み直し
・少なくとも明治時代までは、これを読まぬものはなかったのですが、今日は『大学』はまだ読むけれども、ほとんど『小学』は読まなくなってしまった。しかし小学を学ばなければ大学はわからない。
・人間はかくあらねばならぬという原則を、この肉体で受け取る。これが小学。小学には3つの意味がある。
①初級の学校
②いろいろの知識や学問の根底をなす文字・文章に関する学問
③仏教における小乗と同じように、我々の日常実践の学問
・朱子が先儒や偉大な先覚者達の迹を訪ねて、その中から範となるものを拾って、内外二編、274条目とし、これを兎角知識や論理の遊戯に走りがちな弟子に与え、名付けて『小学』と呼んだ。
・世の中を救うためには、先ず自らを救わなければならない。自らを救うて初めて世を救うことができる。広い意味において小学しなければ、自分もの世の中も救われない。
・人間の三不幸
①年の若いのにどんどん上へ上がる。
②親のお陰で若輩が重役になったりする。
③弁が立ったり、文才があったりして表現が豊かなこと
・ちょっと何かできるからといって持ち上げることは、青少年の教育には一番悪い。大人も同じことで、一芸一能を自慢して、好い気になっておったら駄目である。
・世の中には学ばずといえども学んだものの及ばぬ人がある。そういう人の学と普通の人の人間の学とは違うのであって、普通の人間の学というものは、知性とか、技能とかいった付属的なもので、いわば学の枝葉末節。一々の細かい物象を捉えてやるから科学(えだがく)。これに対して、大体の学は根本の教えであるから宗教(そうきょう)、或いはこれをしゅうきょうという。
・本当の智というものは物を分別すると同時に、物を統合・統一してゆかねばならない。末梢化すれば常に根本に還らなければならない。これが円。仏教では大円境智ということを説くが、分別智は同時に円通でなければならない。
・人間の三原則
①自己保存
②種族の維持・発展
③無限の精神的・心理的向上。人間は他の動物と違って、精神的に心霊的に無限に向上する。所謂上達するようにできている。
・「礼」とは今日の言葉で言えば、部分と部分、部分と全体との調和・秩序。人間は常に自己として在ると同時に、自己の集まって作っておる全体の分として、それぞれみな秩序が立っている。これを分際という。これに対して自分の存在を自由という。人間は自由と同時に分際として存在する。これを統一して「自分」という。
いつ読んでも、どの本を読んでも深い示唆を与えてくださり、東洋哲学を学びながら内省する時間を持ちたいなぁという気持ちにさせてくださる著者。本書もそうした期待通りの内容でした。