ブッダ 神々との対話(中村元)
「サンユッタ・ニカーヤ」の前半部分です。「サンユッタ・ニカーヤ」とは「主題ごとに整理された教えの集成」の意味で5集より成る。第1集は「詩句をともなった集」と名付けられ、「ブッダのことば(スッタニパータ)」と並ぶ貴重な原始仏典。本文庫はその第1〜3篇、ブッダが神々と交す言葉を詩の形にまとめた章を収められています。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯森に住んで
・神:「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」
・仏陀:「彼らは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。刈られた緑の葦のように」
◯歓ぶ
・神「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。執著するよりどころによって、人間に喜びが起こる。執著するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない」
・仏陀「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するよりどころによって、人間に憂いが起こる。執著するよりどころのない人は、実に憂うることがない」
◯触れる
・汚れのない人、清らかで咎のない人、を汚す者があるならば、その邪悪は、かえってその愚者に戻ってくる。風に逆らって細かい塵を投げると、その人に戻ってくるようなものである。
◯財
・「信」は、この世において人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せをもたらす。真実は、実に諸々の飲料のうちで最も優れて甘美なるものである。明らかな智慧によって生きる人を、最上の生活と呼ぶ。
◯愛しき者
・身体によって悪行を行い、言葉によって悪行を行い、心によって悪行を行う人々がいるが、彼らにとっては自己は愛しからぬ者である。
・身体によって善行をなし、言葉によって善行をなし、心によって善行をなす人々がいるが、その人々にとっては自己は愛しき者である。
◯結髪の行者
・彼らが戒めを守っているかどうかは、ともに住んでみて知られる。それも長い間ともに住んでみて知られることであって、僅かの期間では知られません。また気を付けて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知りうるのであって、愚鈍であっては解りません。
・彼らが清純であるかどうかは、ともに話し合ってみて知られる。それも長い間ともに話し合って知られることであって、僅かの期間では知られません。また気を付けて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知りうるのであって、愚鈍であっては解りません。
・彼らがしっかりやっているかどうかは、災難に出会ってみてみて知られる。それも長い間にわたって知られることであって、僅かの期間では知られません。また気を付けて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知りうるのであって、愚鈍であっては解りません。
・彼らが智慧があるかどうかは、会議してみて知られる。それも長い間ともに会議してみて知られることであって、僅かの期間では知られません。また気を付けて注意してみて解るのであって、注意していなければ解りません。また洞察力があってこそ知りうるのであって、愚鈍であっては解りません。
神が発した詩句にブッダが返す返し方が、「こうくるか!」と神がいっぱい食わされるようなやりとりが着眼の違いを感じ、学び・気づきになります。「サンユッタ・ニカーヤ」の後半は、「悪魔との対話」に続きます。タイトルはおどろおどろしいですが、どんな会話が繰り広げられるのか、楽しみです。