20世紀の日本を代表する仏教大家である著者。その中でも本書の4巻シリーズは最もわかりやすく、入門書として最適です。というのも、1985年のNHKラジオダニ放送の全26階の講義録を4冊に分けて収録したもので、語り口調で書かれているのもわかりやすいポイント。本書は第1巻であり、原始仏典とブッダの生涯についてまとめられています。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯『スッタニパータ』の解説より
・めいめいの人が「俺こそ真理に達した人である」と語っている。知識人、学者というものがめいめい、自分の考えていることだけが正しいと思っても、反省しないという誤った傾向はやはり見られる。
・争っている当人達は本気なんでしょうけれども、それを離れた位置から見ると、みんながが争っているということだけが確か。
・世の中の知識人、学者は皆それぞれの偏見を固執しているわけだから、そうすると、彼は全て愚者であり、ごく智慧の劣ったものであるということになる。
・世の中には、多くのことなった真理が永久に存在しているわけではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。彼らは、諸々の偏見に基づいて思索考究を行なって「我が説は真理である」「他人の説は虚妄である」と2つのことを説いている。偏見や伝承の学問屋戒律や誓いや思想や、これらに依存してたの説を軽蔑し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である。無能なやつだ」という。反対者を愚者であるとみなすとともに、自己を真理に達した人であるという。彼は自ら自分を「真理に達した人」であると称しながら、他人を軽蔑し、そのように語る。
◯毒矢の例え(『マッジマ・ニカーヤ』)
・道を歩いていくと、人が毒矢にあたって苦しんでいる。その人に向かって「あなたに矢を射たのはどんな人間か?背は高かった低かったか?男か女か?色は白かったか黒かったか?バラモンか奴隷化?」とかいろいろ論議している間に、その人は毒がからに回って死んでしまう。それと同じように、解決のできないような哲学論に巻き込まれていて、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人に教えた。
◯『スッタニパータ』「慈しみの経」より
・究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。
・「自勝者強、知足者富」(自らに勝つものは強し、足るを知る者は富めり)。富むというのはうんと物を持っていることじゃない、足るを知ることが富んでいるのだ。
◯「やすらぎ」を求める人々に
・衝動的なものが内にあるのを「妄執」と呼ぶ。
・それを知って乗り越える。つまり知ることが乗り越えることになる。形あるものとしての人間の肉体の老いること、死ぬこと、これは避けることができない。けれども、その理を知って、そして、怠けることなく励む。妄執を捨てるということが生きる道であり、老いを克服する道である。
◯人生の幸福とは何か(『スッタニパータ』より)
・尊敬と謙遜と満足と感謝と時に教えを聞くこと
・耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと
・修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを体得すること
・世俗の事柄に触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること
◯三輪清浄(『サンユッタ・ニカーヤ』)
・施す主体と施される相手とその間に渡されるもの、その3つが清らかでなければならない。「俺はあいつにこういうことをしてやったんだ」とか、そういう思いがあるときは「オレ」と「あいつ」と「このこと」の、その3つが滞っているわけです。そうではなくて、そういうことはもう忘れた清らかな気持ちで、人々にものを与え、奉仕するということ、これがありがたいこと。
◯真心の言葉(『サンユッタ・ニカーヤ』)
・「見事に説かれた言葉のみを語り、悪しく説かれた言葉を語らず」
・「理法のみを語って、理にかなわぬことを語らず」
・「好ましいことのみを語って、好しからぬことを語らず」
・「真実のみを語って、虚妄を語らない」
ブッダの言葉は、生き方のヒントになるものが実に多いと思います。心に留めておく言葉が見つかると、一つ拠り所となり、心が安定する効果があると思います。仏教は膨大な量の経典があるので、時間をかけてゆっくり学んでいきたいと思います。