努力論(倖田露伴)
『努力論』(倖田露伴)
「昔テストで見たな」くらいしか知らなかったのですが、帯に惹かれて買ってみました。著者(1867〜1947年)は、尾崎紅葉とともに「紅露時代」を築いた作家。本書最後にある「解説」に興味深いことが書かれています。本書は、『努力論』と言いながら「努力してはいけない」ということを論じた啓発書。何それ?って思いますよね。努力はいけない。努力をしないで努力をすると、努力をした以上の仕事ができるとのことです。そんな逆説的なところを意識しながら読むと面白いと思います。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯2種類の努力
①「間接努力」:準備の努力
②「直接努力」:当面の努力
・努力ということが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力すべきである。
・若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのずからにして存している。ただ時あって努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が悪いからであるか、しからざれば間接の努力が欠けて、直接の努力のみが用いらるるためである。無理な願望に努力するのは努力が欠けているからだろう。
◯分福の説
・福を分かつ「分福」。幾分を残し留むるのは「惜福」。
・自己の幸福を自己が十分に享受し使用せぬところは二者全く相同じ。自己にとっては、差し当たり利益を減損し、不利益を受けているようなものである。しかし、惜福ということが間接に大利益をなして、能く福を惜しむものをして福運の来訪に接しむるがごとく、分福ということもまた間接にその福を分かつところの人をして福運の来訪に接すること多からしむるのは、世の実例の示していることである。
・幸福利益の源頭となる事をなすのは植福。植福とは?新たに林檎の種を播きてこれを成木せしめんとするのは植福。同じ苗木を植えつけて成木せしめんとするのも植福。悪木に良樹の穂を接ぎて、美果を実らしめんとするのも植福である。およそ天地の生々化育の作用を助け、または人畜の福利を増進するに適当するの事をなすのはすなわち植福である。
◯努力の堆積
・「奮闘」とは仮想の敵があるような場合に適当するもの。「努力」は我が敵の有無に拘らず、自己の裁量を尽くしてしかしてある事に勉励する意味で、「奮闘」という言葉が有する感情異議よりは、高大で、中止で、中正で、明白で、人間の真面目な意義を発揮している。
・元来一切の世界の文明は、この努力の二字に根差して、そこから芽を発し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると言わねばならぬ。
・努力に比して、ちょうどどの相手のごとく見ゆるものがある。それは好んでなすこと。努力は厭な事をも忍んでないし、苦しい思いにも堪えて、しかして労に服し事に当たるという意味。
・「嗜好」という場合には、苦しいことも打ち忘れ、厭うという感情も全くなくて、すなわち意志と感情とが並行線的。もしくは同一線的に働いている場合を言う。努力はそれとやや違った意味を有し、意志と感情とが相ごし戻っている場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬようになし、そして熱して熱して已まぬのをいう。
◯静光動光
・静かなる光と動く光とは、その力は同じでもその働き具合は同じではない。
・室内の燈の光は、細字の書をも読ませてくれる。風の裏の光の光は、かなりの大きな字の書をも読み難からしむるではないか。アーク燈の光は強いけれど、それで新聞は読みづらい。室内電燈の光は弱くてもかえって読み良い。静かな光と動く光とはその働き具合に大きな差がある。同じ心の力だと仮定する。しかし静かに定まった心の働きと、動いた乱れた心の働きとは、大分に違うのが事実である。ちょうど同じ力の光でも、静かなのと動いているのとでは、その働きにおいて大分に違うように。
・散る心、すなわち散乱心は、その働きの面白くない心である。動き乱れた心は、喩えば風中燈のようなもので、これをして明らかならしむるとも、物を照らす働きの面白くないことは『大論』にも説いてある通りだ。
努力するということは何かネガティブな思いが根底にあるはずで、努力を超えて自然体に、無意識に努力以上のことができるような状態を作れると、それは「努力」と思っていた時の成果を遥かに超える結果をもたらすのではないかと思います。「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますが、好んで努力以上のエネルギーを生むことができれば、実力以上のものが発揮できるのではないかと思います。