『龍樹』(中村元)
目下取り組んでいるレポートの主要書籍である本書。「空」の思想を説いた龍樹(ナーガールジュナ)の生涯や思想についてまとめられています。空の思想を瞑想や縁起の思想によって説いた仏陀とは異なるアプローチで捉えており、哲学的で正直難しい内容です。まだまだ悪戦苦闘中ですが、龍樹に関する書籍を4〜5冊読み進めるうちに何となくですが、イメージが少しずつわいて来たような気もします。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯般若経典における空観
空観とは、一切諸法が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想。「我々は固定的な法という観念を抱いてはならない」(『金剛経』六節)。一切諸法は空である。何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、「無自性」であるから、本体を持たないものは空であると言わねばならぬからである。そうして、「諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅するということも、真実には存在しないことになる」(『金剛経二七節』)。かかる理法を体得することが無上正等覚(さとり)である。
実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。
例えば『金剛般若経』の第一〇節では「まさに住するところなくしてその心を生ずべし」(応無所住而生其心)と説いている。菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのだと思ったならば、それは真実の菩薩ではない。彼にとっては、救うものを空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。
◯中道の意義
・中道の思想はすでに原始仏教聖典のうちにこれを見出すことができる。倫理的な意味において八正道が中道であると説かれている箇所もかなり多いが、これとは別に純粋に理論的な意味において「中」または「中道」を説いている箇所がある。「如来は二辺をはなれて中によって法を説く」と言われている。
・そうして注目すべきは、中道の説明が常に演技の説明に関連してなされているということである。「縁起」とは「これらのもろもろの」一方的な見解を離れていること」であるから中道であると説かれている。すなわち、例えば苦しみについていうならば、苦しみが「自ら作られたものであること」を説くのは、苦しみを作ったものとそれを感受するものとが同一であることを意味するから常住を執する見解(常見)であり、苦しみが「他のものによって作られたこと」を説くのは、これに反して、苦しみを作ったものとそれを感受するものとが別異であることを意味するから断滅を執する見解(断見)であり、両者は二つの一方的な見解(二辺)であるとされている。
・これに対して縁起はそのいずれでもなく、いわんやそれが「両者によって作られた」とか「無因によって作られた」とかを説くのではないから、中道であると説明されている。
龍樹の作品で有名なのが、『中論』。原始仏典(ブッダの教えをといたもの)、大乗仏教(その後日本に伝わってきた般若経典や法華経、華厳教など)とは異なり、西洋哲学的なアプローチで理屈を捏ねて否定に否定を重ね、「だから結局何もない⇨空」という流れは、頭を酷使する学問であり、これもまた仏教の側面なのかと考えが新たになっています。これでレポート5科目目(9本目)になりますが、最も時間がかかっております。むずい・・。