『法華経(NHK100分de名著ブックス)』(植木雅俊)
釈尊(お釈迦様)が亡くなって500年ほどたった頃(1〜3世紀初頭)に、インド北西部で編纂されたと考えられる『法華経』。小乗(説一切有部)と大乗の対立を止揚する、両者を融合させて全てを救うことを主張するお経です。本書では、仏教思想家で、サンスクリット原典語訳を手がけられている著者が、『法華経』の要点をコンパクトにまとめた一冊です。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯釈尊滅後の仏教の変容
①修行の困難さの強調と釈尊の神格化
②釈尊の位置付けの変化
・説一切有部が「菩薩」という言葉を発明し、それを釈尊に限定した
③悟りを得られる人の範囲
・原始仏教では、出家・在家、男女の別なく覚りを得ていた。
・部派仏教になると、ブッダに至ることができるのは釈尊一人だけとなった。
④仏弟子の範囲
・原始仏教では、出家・在家、男女の別なく「仏弟子」と呼ばれた。
・部派仏教では、在家者と女性を仏弟子の範疇から除外する。
⑤釈尊の遺言
・部派仏教になると、卒塔婆信仰になり、釈尊の遺骨(仏舎利)を収めた塔への侵攻に変わった。
・「菩薩」をあらゆる人に開放した。例外は「声聞」(師についてその教えを聞いて学ぶ)と「独覚」(師につかず単独で覚りを目指す)。これは大乗側の差別思想。
・小乗と大乗の差別思想と対立を克服し、普遍的平等思想を打ち出すという課題を受けて成立したのが『法華経』。
・『法華経』に一貫しているのは、「原始仏教の原点に還れ」という主張。
・声聞、独覚、菩薩のすべてを否定しているわけだが、最終的にはその3つすべてが肯定されることになる。これが『法華経』の主張する「一仏乗」。本当に説きたいのは、ブッダに至るただ一つの乗り物。
・『法華経』はあらゆる人の成仏を可能とする一仏乗こそが真実の教えであり、声聞・独覚の二乗に菩薩を加えた三乗の教えはすべて方便だとした。
◯三車火宅の譬え
・ある資産家が豪邸に住んでいた。その家の中で子供達が遊んでいたとき、家が火事になった。資産家自身は無事に脱出できたのだが、子供達はまだ家の中にいる。家事がいかに危険なものかを知らないため、父親がいくら外から「逃げなさい」といっても遊びに夢中になって耳を貸そうとしない。「そうだ、息子たちが日頃から欲しがっていたものがった。おもちゃの羊の車と、鹿の車と、牛の車だ」と資産家は思い出し、それらをあげるから外に出てくるようにという。すると子供達は我先にと飛び出してきた。そして、「お父さん、さっき言っていたおもちゃの車をください」といったところ、資産家は本物の立派な牛の車を子供達に与えた。という話。
・火事になった家は苦しみに満ちた現実世界。遊びに夢中になっている子供達は、刹那主義的な生き方で六道輪廻している衆生、資産家は如来、おもちゃの鹿の車・羊の車・牛の車は、それぞれ声聞乗・独覚乗・菩薩乗、そして本物の牛の車は、一仏乗の譬喩。
・ここに仏教の特質が出ている。相手が納得していないのに強引に外に連れて行くのではなく、子供達が自分で自覚し、自分たちの志でそこを抜け出して行くことを尊重している。方便など言葉を駆使して、子供達の自覚的行為を促した。
◯薬草の譬え
・同一の雨水によって潤される植物は千差万別ですが、それらが生い茂っている大地は同一。植物に違いはあっても、その違いは対立することもなく、根底は同一の大地に根ざしている。声聞、独覚、菩薩という3つの立場には違いがあるけれど、すべて人間として平等であり、互いに差別されるものではない。
・表面的な違いにとらわれず、人間に内在する普遍性を見ることが大事。
◯釈尊が語った、困難なこと、容易なこと
・容易なこと
①ガンジス河の砂の数ほどの経典を説くこと
②スメール山を片手で掴んで放り投げること
③三千大千世界の足の指一本で蹴飛ばすこと
④世界が劫火で焼き尽くされるときに焼かれることなく乾草を背負って歩くこと
⇨科学技術の進展によって解決できそうなもの
・困難なこと
滅後にこの経を受持(心にとどめて忘れない)し、語り、書写し、一人にでも聞かせること
⇨科学技術の問題ではなく、人間のあり方、生き方、思想的な営みのこと。
今回、『法華経』の世界に初めて触れました。同じ仏教と言っても、たくさんの考え方に分化している経緯、そして、対立を融和していく考えと、実際にどのように広めていくのかという困難さを感じる一冊です。実際に『法華経』を読むとかなりの労力を要するところ、手軽に読めてエッセンスを掴める「100分de名著シリーズ」の便利さを享受しました。