『人はいかにして大成するか』(伊與田覺)
本書は100歳を超えてなお現役で『論語』をはじめとした中国古典を講義し続けていらっしゃる著者が「神道」と「中庸」についての講義された内容をまとめた一冊です。講義形式なので読みやすくまとめられています。
【本書の学び】
①「悟」は、口を5本の指で覆っている。本当のところは、人に言えないということ。
②「中庸」はゼロを説いた本。ゼロは無限のもの。次々と何もないところから出てくる。求めずして得られる状態。
③大人でありながら、非常に素直になったときに中庸がわかる。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯神道
・神道には理論がない。昔から日本の神道は「言挙げ」をしない。言葉で表現できないけれども確かに存在している。それが神道というもの。
・神道の分類
①古神道という、日本民族発症以来、自然に出来上がってきたもの
②国家神道という、天つ神、国つ神をはじめ国との関係が深くて非常に功績のあった人をお祭りするもの
③いわゆる宗教としての神道
◯『中庸』
・孔子の孫である子思が著したもの。すなわち、『中庸』のもとは孔子にある。ゆえに『中庸』を理解するためには、まず孔子という人物について知らないといけない。
・『中庸』は、言葉を変えていうと「ゼロ」を説いた本。
・ゼロとは「何もない」ことだと思うかもしれない。けれどもそのゼロの中には無限のものがある。「無尽蔵」という言葉があるが、次から次へと、何もないところからひょいひょい出てくる。求めずして得られる。それがゼロ。
・『中庸』の分かる人とわからない人の差は「ゼロ」が分かるかどうかの差といってもいい。
・「五十にして天命を知る」という心境を体得した人が『中庸』を読むと、実によく分かる。逆に『中庸』を読んで知識を集積するというところで止まっている人には、永久にわからない。
◯論語
・「子曰く、学びて時に之を習う、亦悦しからずや」
⇨学ぶというのは、人と通じて学ぶ、あるいは、書物を通じて学ぶのが普通。つまり、外から学んで「ああ、これはいいことだ」と頭に吸収するわけです。しかし、孔子はそれだけではなかった。時に応じて学んだことを実践して「あの先生のおっしゃることは本当だな」「あの書物に書いてあることは本当だ」と自分で体得した。これが「学びて時に之を習う」ということ。「習う」とは、たびたび繰り返しながら行うこと。
・孔子は人に注目されることのみを求めていたわけではない。それを表しているのが「人知らずして愠みず、亦君子ならずや」という言葉。人が自分の努力を知ってくれなくても、自分のなすべきことをなして怠らず、何人も恨むことなく、何人も責めることなく、黙々として自らの務めを続けていく。そういう人は何と立派な人物ではないか、と言っている。
・「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども、矩を超えず」
⇨私は十五の年に聖賢の学に志し(志学)、三十になって一つの信念を持って世に立った(自立)。しかし世の中は意のままには動かず、迷いに迷ったが、四十になって物の道理が分かるにつれて迷わなくなった(不惑)。五十になるに及び、自分が天の働きによって生まれ、また何者にも変えられない尊い使命を授けられていることを悟った(知命)。六十になって、人の言葉や天の声が素直に聞けるようになった(耳順)。そうして七十を過ぎる頃から自分の思いのままに行動をしても、決して道理を踏み外すことはなくなった(従心)。
・「我に数年を加え、五十にして以って易を学べば、以って大過無かるべし」
⇨五十で易を学べば大きな過ちはないだろう、というので孔子は五十になる前から易を学ぶようになる。
◯易が持つ3つの意味
①変易
・駅は変化を対象にしている。森羅万象すべて一瞬として止まっているところはない。
・「諸行無常」と言うが、「諸行」の「行」は「変化する」と言う意味。すべてのものは変化して常がない。だから、諸行無常とは「変易」のこと。
②不易
・森羅万象は絶えず変化はするけれども、むやみやたらに変化するものではない。そこには変化の法則というものがある。
・「不易」の法則が一本通っている。すべて人生にはこの不易の法則が通っている。
③陰陽
・易というものは非常に複雑なように見えるけれども、実に簡単なもの。そこには必ず陰と陽がある。万物は、すべて陰と陽に分かれます。けれども、陰と陽が別々であるとそこからは何も生じない。万物は陰と陽がとが結ばれて初めて生じてくる。これは実に簡単な原理。
神道、中庸、論語と一つひとつがとても深い分野なので、本書ではその繋がりを理解するという感じでしょうか。それぞれは、様々な書籍が販売されているので、まずは1冊ずつでも読んでみることをお勧めします。