究極の旅(OSHO)
『究極の旅』(OSHO)
「OSHO禅の十牛図を語る」という副題のついた本書。人間意識の歴史の中でも「真実」は今まで様々な方法で表現されてきたが、描写から逃げてしまい、表現した瞬間たちまち欲求不満を感じてしまう。「禅の十牛図」はその表現不可能なものを表現しよとした試み。もともと十ではなく八だったものを中国の禅のマスター郭庵が描きなおして十牛にしたもの。「牛」を例えに人間心理を解き明かす一冊です。
【本書の学び】
①信用は信頼の敵。生を信頼する。自分で体験したものが元々信用しているものならそれが初めて信頼になる。
②「なぜあなたはここにいるのか?」ではなく、「あなたは誰か?」という問いを立てる。「なぜ?」に終わりはない。beingを問う。
③迷いは客観性によって引き起こされる。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯第一図(尋牛)より
・道端に立ち止まり、少し瞑想して、自分が何をやっているのか、何のためにそれをやっているのか考え直してみる。走ることは、あなたをもっと速く走らせるばかりなのだから。走ることはあなたをだんだん止まれなくする。あなたは何かし続けるだろう。それは習慣になってしまい、それなしには生きた心地もすまい。
◯第二図(見跡)より
・速く走れば走るほど余計に混乱する。スピードがつけばつくほど、もっともっと多くの混乱が起きる。だんだんと、あらゆる方向感覚を失ってしまう。あなたはただただあっちこっちと飛び回り続ける。スピードそれ自体がゴールになってしまう。まるで、速く走れば、人はどこかにたどり着くと感じているかのよう。それがためにスピードに引きつけられる。それは一種のノイローゼだ。
◯第三図(見牛)より
・自分自身の絵を描くばかりじゃない。人間は鏡の前に立ち自分の反射を見、そして自分自身が自分の反射を見ているのを見る。それが限りなくつづていき、これがために「自意識」が起こる。「エゴ」が生まれる。これがために現実よりも映像のほうに興味を持つようになる。
・夢や思考やイメージに対する興味こそ、人間が自分自身を知ることのできない根本原因である。
◯第四図(得牛)より
・集中というのは対象を持っている。瞑想には何の対象もない。そして、この選択なき覚醒の中で「心」は消え失せる。なぜなら心が存続できるのは、意識が狭い場合に限られるから。もし意識が広がったら大きく広がっていたら、心は存在できない。心は選択とともにしか存在できないから。
・あなたが「この鶯はうたがきれいだ」と言う。この瞬間、他の一切は締め出され心が入り込んでくる。それをこういう風に言ってみてもいい。「心」とは意識の狭隘化状態だ。意識はごく狭い回路を流れるトンネルだ。瞑想とはただ広々とした空の下に立つこと。全てに間に合うことだ。
◯第五図(牧牛)より
・探究者にとってまず第一は、信条が障壁だということに気づくこと。すべての信条、無条件にすべての信条は障壁。信条を落とすこと。
・信頼は疑いに直面することによって起こるもの。それから逃げることによってじゃない。信条というのは逃避。そして信条はニセ札。それは信頼のように見えるが、信頼じゃない。信条の中には、疑いがその下を底流のように流れ続けている。信頼の中には疑いなどかけらもない。
◯第六図(騎牛帰家)より
・まず第一は鞭(覚醒)、第二は手綱(統制)。結局はそれで十分。初めのうちはそうじゃない。というのは、心には根深いパターンがあり、エネルギーというのは、古い習慣や古いパターンで動く傾向があるから。新しい回路が作り出されなくてはならない。
・初めのうち、覚醒が固まりつつあるときには統制は役立つ。統制というのは、単にエネルギーが動くための新しい通路を作り出して、それが古い通路を動かなくてもいいようにしようとする努力に他ならない。
・統制は新しい通路を作るために必要とされる。覚醒と統制は肩を並べていくべきもの。
◯第七図(忘牛存人)より
・もしあなたの身体が完璧に健康だったら、そのときには、あなたのどんな肉体感覚も持たないものだ。まるで、身体がないかのように。身体がないということこそ完璧な健康の定義。
・分離はひとつの病。健康ならあなたは全体と別々ではない。頭痛がするとき、あなたの頭はあなたと別々だ。それを見守ったことがあるか?頭痛が内側でズキズキと叩きつけるように続いているとき、あなたの頭はあなたと離れている。ところが、その頭痛が消え失せると頭もまた消え失せる。
◯第八図(人牛倶忘)より
・自我(エゴ)は緊張の中に存在する。自我には、二元対立が必要。それは非二次元的現実と一緒には存在できない。だから、ちょっと見守ってごらん。あなたが戦っているようなときには、必ずあなたの自我はとても強くなる。
・自我というものは、争いの、戦いの間にのみ可能なもの。もし何も戦うものがないとしても、あなたはなにかかにか道を作って戦おうとするだろう。
ちょっと難しいところもあるのですが、全体を大きなストーリーとして捉えて、人の自然なあり方を意識できる内容でした。OSHOシリーズ全体に言えることですが、何かを覚えるというのではなく、読みながら感じ・考えていく過程そのものに価値があると思います。