『原始仏典 長部教典I(第1巻)』(監修:中村元)②(◯)
原始仏典シリーズ第1巻(全部で19巻あります)。続きです。
(印象に残ったところ・・本書より)
【沙門果経】
・前半は、アジャータサットゥ王が釈尊と初めて出会い、その時までに自分が当時の有力な6人の指導者(六師外道)より受けた教説について、一説ずつ説明する内容。
・後半は、当時の仏教宗団(サンガ)におけるビク(比丘)たちの出家修行生活の基本的なあり方とその教理が説明されている。
◯目に見える修行の成果
①「奴隷であっても、出家し身体を制御して生活し、言葉をつつしんで生活し、心を制御して生活し、与えられた食物と衣服を最高のものと満足し、世を離れて独居を楽しんでいる。その場合、「その男を私のところへ連れ戻せ、再び下僕として早くを気遅く寝て、何事にも重巡でせっせと働き、にこやかに話し、私の顔色を伺うどれとせよと」と言われるのでしょうか?」
⇨「むしろ私の方が彼に挨拶をし、立って出迎え、座を勧め、彼に僧衣・食物・起居の場所・病人用の医薬と日用必需品をすすめ、彼を適切に保護し庇護し守護する用意をいたしましょう」
⇨「もしその通りなら、目に見える修行の成果はあるのではないでしょうか』
②「農民であっても・・・(以下①と同じ)」
◯戒律を守る
・出家者となり、戒律を守ることによって守られ、正しい行いと行動の範囲を維持して生活する。極めて軽微な罪過に関しても恐れの念を抱き、戒条の各条を正しく受持し学習する。身体と言葉に関する行為を維持し、清浄な生活をなし、戒をそなえ、初感覚器官の門を守り、注意力と明瞭な意識を維持し、満足している。
◯小戒、中戒、大戒
まとめ①で記載したため(略)
◯感覚器官の防護
①眼
修行僧は眼によってものを見る場合、その全体相にも捉われず、その細部にも捉われません。この眼という感覚器官を制御しないで生活する結果として、もろもろの貪欲と憂悩という悪不善の状態が入り込むことになりますから、かれはその制御につとめ、眼という感覚器官を保護し、眼という感覚器官の制御を達成します。
②耳・・①と同様
③鼻・・①と同様
④舌・・①と同様
⑤身体(の皮膚)・・①と同様
⑥意・・①と同様
◯5つの障害の除去
①借金
「私は以前に借金をして事業を営み、その事業が成功して、前の借金の元金を返済し終わり、その上、私には余剰があって妻に装飾品を買うことができている」
②病気
「私は以前、病気になって苦しみ、病が重くなって食事を好まず、身体に力がなくなった。その私が、今ではその病から脱し、食事を好み身体に力がついている」
③牢獄
「私は以前に、牢獄に繋がれていたが、今では安全無事にその拘束を解かれ、しかも財産を少しも失われていない」
④奴隷
「私は以前は、奴隷として自由がなく、他人に隷属し、欲するがままに行くこともできなかった。それが今では、その奴隷の境遇から解放され、自由になり、他人に隷属せず、自由の身として欲するままに行くことができる」
⑤荒野の危険な道
「私は以前、財宝をもち貨財をもって、荒野の危険な道を食物もなく恐怖におののきながら進んだ。その私が今では、その荒野を通り抜け、恐怖のない村のはずれまで、無事にたどり着いた」
⇨修行僧は、いまだ捨てられない五種の障害(煩悩)をちょうど借金のように、病気のように、牢獄のように、奴隷のように、荒野の道のようなものとして自己の中に見る。これら五種の障害が既に捨て去られているのを自己の中に見る者には、満悦が生じ、満悦する者には喜悦が生じ、喜悦の心を持つ者の身体は軽安となり、経安なる身体の者は楽福を感じ、楽福の心の者は安定(三昧)を得る。
◯第一の禅定
・修行僧は、もろもろの欲を離れ、もろもろの不善なことを離れ、大まかな思考と細かい思考とをまだ伴ってはいるが、欲・不善からの遠離によって生じた喜びと安楽のある第一の禅定としてそこにいる。
・かれはこの身体をば、遠離によって生じた喜びと安楽によって、潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させる。かれの体全身、どこも遠離によって生じた喜びと安楽に触れないところはない。
◯第二の禅定
・修行僧は、大まかな思考・細かい思考が滅することによって、内心が清浄で、心が一点に集中され、大まかな思考・細かい思考を離れ、心の安定より生じた喜びと安楽のある第二の禅定に達してこそにいる。
・かれはこの身体をば、遠離によって生じた喜びと安楽によって、潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させる。かれの体全身、どこも遠離によって生じた喜びと安楽に触れないところはない。
◯第三の禅定
・修行僧は、第二の禅定の喜びをも離れることによって、喜憂から超越的で注意力と明瞭な意識を持って生活し、安楽を身体で感じ、聖者たちが「超越的で注意力と明瞭な意識を持って安楽の中にいる者」と語る、第三の禅定に達してそこにいる。
・かれはこの身体をば、遠離によって生じた喜びと安楽によって、潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させる。かれの体全身、どこも遠離によって生じた喜びと安楽に触れないところはない。
◯第四の禅定
・第三の禅定の安楽をも断ち、苦をも断つことにより、また以前に第一禅・第二禅において喜悦と憂悩とが消滅していることから、苦もなく楽もなく、超越より生じた注意力が最も清浄になっている第四の禅定に達してそこにいる。
・かれはこの身体をば、遠離によって生じた喜びと安楽によって、潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させる。かれの体全身、どこも遠離によって生じた喜びと安楽に触れないところはない。
◯無我の理解洞察
・心が安定し、清浄で純白となり、汚れなく、心に付随する煩悩をも離れ、柔軟になり、行動に適応し、不動なものとなると、かれ(修行僧)は次のような理解洞察に対して心を傾け、心を向ける。
・そしてかれは実に私のこの身体は、形を有し、四大元素からなり、母と父から生まれ、食べた飯と粥の集積であり、無常であってたえず衰え、消耗し、分解し、破壊する性質のものである。しかも私のこの意識は、ここ(身体)に依存し、ここに付属している」
ここに書かれていることは、この第1巻を通じて何度も繰り返し登場します。それだけ、多数の経典に書かれているということは、本質的なものなのだろうと思い、この言葉の意味合いを感じ取っていければと思っています。