MBA男子の勝手に読書ログ

グロービス経営大学院を卒業したMBA生の書評と雑感。経営に関する基本書、実務書のほか、金融、経済、歴史、人間力、マネジメント力、コミュニケーション力、コーチング、カウンセリング、自己啓発本、ビジネススキル、哲学・思想など、幅広い教養を身につけ、人間性を磨く観点で選書しています。

法句経講義(友松圓諦)

『法句経講義』(友松圓諦)

 本書は、昭和9年にラジオで放送された著者の『法句経講義』をまとめた一冊。『法句経』は『ダンマパダ』とも呼ばれ、ブッダの教えである原始仏教の最古の経典のひとつです。『法句経』は全部で423の詩で構成されますが、このラジオ講義では、15の詩を取り上げ、各30分の講義がされたようです。

 

(印象に残ったところ・・本書より)

◯怨みは息(や)む

「まこと、怨みごころは、いかなるすべをもつとも、怨みをいだくその日まで、この地上にはやみがたし。ただ怨みなさによりてこそ、この怨みは息(や)む。これかわりなき真理(まこと)ぞ」(法句経5)

・怨みなどと軽く取り扱いたがる人があるなら、それは、棘の刺さった時の痛みを知らぬ人です。怨みと言います者は、いわば、ちょうど人間の心臓に突き刺さった棘のようなもの。それだけに痛みが非常に内面的で、外にはあまり出なく、したがって人にはさほどに感ぜられなくとも、自分には非常に疼き痛むのです。

・この小さい問題のように思われる怨みということをここで考えるということが、そこに大きな問題、人生問題、社会問題という大きな問題も、この一本の棘をどう考えるか、どうやって抜くのかという、真面目な考え方から解けて来はしないでありましょうか。

・問題は、いかにこの私どもの内心に疼き、痛みを与えている怨み心を除き去っていくかという実際の方法であります。

・怨みという者は、素直に面を見ていかないで、裏を裏をと見ていくことなんでしょう。

・どんなに素直に言っても、「あれはああいう風に口で言っているけど実は本心ではこうではないだろうか」というように万事、非常に陰性にものを考えていく、逆にくねっている。

・こういうようなものの歪んだ考え方が出て参りますと、小さい角度が先にゆきますと、大変、大きい開きが出てくるように、この怨みというものはだんだん昴じてゆきますばかりで、しまいには、これをひとり心のうちにひそめてゆくことができず、じっとしてはおれぬような、「何とかしてあの怨みを晴らしてやろう」とか、「自分の眼の黒い間に一身を犠牲にしてもこの怨みを返さなくてはおかない」、そういう恐ろしい考え方が心の一隅に用意されます。

・ゴミが眼に入る。「痛いっ」と思って眼をこする。取れない。もういっぺんこする。こすればこするだけ、だんだん痛みが増えてゴミが眼の中により深く入っていくというように、それと同じく、棘を抜こうとすればかえって中に入ってしまうというように、怨みというものも、この怨みを何としようと思って悶えても、焦り、苛立っても、なかなかその怨みというものは心の奥深く残る。なんともすることができない。

・この怨みに対して、怨みの心を持って解こうとしたところで、「いかなる術もない」と書いてあります。

・恨みを解きほどく道はないだろうか。その答えこそ、釈尊が「ただ怨みなき心によってのみ、怨みを解くことができる」と言い放たれたものです。

・じっと自分の心の上に観念すること。なまじっか怨みを抜こうとするから抜けない。「抜こうとする」という意識、「あなたを怨んでいませんよ」という意識、それがいけないんです。「怨んでいませんよ」ということはその実、怨みの一つの片鱗なんだ。その怨みというものとさっと変わった、本質的に違ったもの、「怨みでないもの」、いわゆる、火を消そうと思えば水のように、怨みでないもの、恨みなき心によってのみその怨みを解くことができる。

・仏教では「怨んだ相手の病気はどうだろう」と心配する心が起こったらおのずと怨みが解けて来ます。それが「怨みなき心によりてのみ、怨みを解くことができる」のです。

 

 私にとって仏教とは宗教というよりも内省するための学問としてとらえて読むようにしています。特に、原始仏教を中心に読んでいますが、この内容が2,500年以上前に法話され、その後まとめられたのかと思うと、先人の知恵のすごさを率直に感じます。現代のように情報がない時代、自分が感じ取ったことを人に伝え、共感を生み、それが生きる上で役立つからこそ、伝え残ってきたのだと思うと、この領域を学び深めることの意味や大切さを感じます。