『瞑想』(J.クリシュナムルティ)
著者(1895〜1986)は、南インドに生まれ34歳まで星の教団の指導者であったが、その後、同教団を解散し、数多くの講話・著作・対話を通じて、「人間を絶対的に、無条件に自由にすること」に生涯を捧げた方。本書は、タイトル通り、瞑想についての著者の考え方をまとめた一冊で、100ページ強の読みやすい内容です。ある程度瞑想をやっていないとピンとこない、瞑想に向き合う心にフォーカスされています。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯冒頭「この本によせて」より
人は葛藤からのがれるために、さまざまな瞑想をあみだしてきました。しかし、それらの瞑想は、欲望や意図にもとづいて、なんとかそれを達成しようという衝動にかりたてられています。したがって、それらのなかには、どこかにたどりつこうとする苦闘や葛藤が含まれます。
このような意識され、意図された努力が、条件づけられた心の限界を超えることはありません。そこには、まったく自由がありません。
瞑想しようとする努力はすべて、瞑想を否定するものです。
瞑想とは、思考がやむことです。そのときこそ、時間を超えた新たな次元があらわれるのです。
◯静けさ
瞑想の中にある心は静かです。それは、思考でとらえられる静けさではありません。穏やかな夕暮れどきの静寂とも違います。それは、思考がその表象、言葉、知覚のすべてとともに、すっかりやんでしまうときに訪れる静けさです。
あなた方は果たしてわかっているでしょうか。あなたがすべてに注意を払えば、完全な静けさが訪れるのです。その注意の中には、どんな境界もありません。中心となるものもありません。気づいている”わたし”とか、注意を払っている”わたし”のようなものはありません。この注意、この静けさ、それが瞑想の状態です。
瞑想とは、分離がなくなることです。
◯技法
瞑想にはどんな技法もありません。それゆえ、瞑想には権威者などいないのです。思考を挟むことなく気づいているとき、それはすでに瞑想になっています。
◯頭を休める
瞑想が起こっているかどうかは、頭が完全に静まっているかどうかでわかります。そのとき、頭はいっさいの活動をやめ、どんな体験もうまなくなります。
「私は素晴らしい体験をしたい。だから、何としても頭を静めなくては、、、」このようなことを口にすることは、決して頭を静めることができません。
◯気づき
瞑想は厳しい作業です。それには、最も高度な規律が求められます。
その規律は、絶え間ない気づきを通して生まれてくるものです。自分の外側で起こっていることだけでなく、内側で起こっていることにも、絶え間なく気づいているということです。
日常生活の中では、協調性と感受性と知性が必要とされます。正しい生活をしっかり築いていないと、瞑想は一つの逃げ道になり、まったく価値のないものになってしまいます。
自分を知ることを通して、それらに気づくことによって自由になれるのです。
自分が何をしているのか、気づくことがなければ、瞑想は感覚の昂揚をもたらすだけのほとんど意味のないものになっていまいます。
瞑想とは、ありのままに、ものを見ることであり、それを超えていくことです。
◯秩序
瞑想的な心が生まれる土壌は、日常の生活の中にあります。そこには、争いがあり、苦痛があり、つかの間の喜びがあります。瞑想は、そこで始められなくてはなりません。そこに秩序をもたらし、そこから果てしなく動いていかなくてはならないのです。
しかしあなたが、秩序を作り出すことだけに関心を持つなら、その秩序そのものが限界をもたらし、心はその囚人になってしまうでしょう。
瞑想の美しさというのは、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのか、その果てに何があるのか決して分からないということです。
◯自由
瞑想とは、なんという途方もないものでしょう。もしわずかでも、思考を瞑想に従わせ、瞑想の型にはめようと努力するなら、煩わしい重荷になってしまいます。静寂を得ようと望むなら、その静寂は輝きを失ってしまいます。もし瞑想によって、ヴィジョンや体験を追い求めているとしたら、幻想の世界や自己暗示に行き着いてしまいます。
瞑想とは、知識の世界を通り抜け、知識から自由になり、未知のものへと入ってゆくことです。
瞑想とは、快楽を追い求めることではありません。幸せを探し求めることでもありません。瞑想とは、概念や固定観念が、何ひとつない心の状態です。心が完全に自由になった状態です。
◯心
あなたが瞑想をするために、わざわざ何らかの心構えをし、瞑想のポーズをとるなら、それは心にとって、ひとつの遊び道具となります。心のおもちゃになってしまいます。
あなたが、人生の混乱やみじめさから自分を救い出そうと決心するとしましょう。そうした決意に基づく瞑想は一種の想念の体験にはなりますが、瞑想ではありません。意識的な心であろうと、無意識的な心であろうと、瞑想の中では、心がひとかけらも働いてはならないのです。心が瞑想の広がりや美しさに気づくことすら、あってはなりません。
◯自身の理解
ただ何も選び取ることなく、事実に気づいていればよいのです。ある方式に則って瞑想をすることは、あなたのあるがままの事実を避けていることに他なりません。神を見いだそうとしたり、ヴィジョンを得ようとしたり、感覚に酔いしれたり、そのほかの慰めのために瞑想するよりも、あなた自身を理解し、あなたの果てしなく変化していく事実を理解することの方がはるかに重要です。
◯集中
瞑想は、何かに集中することではありません。集中することは排除すること、切り離すこと、抵抗することです。だから、そこには葛藤が起こります。瞑想の中にある心も、集中することはできます。その時それは、排除することでもなく、抵抗することでもありません。しかし、集中している心に、瞑想することはできません。
瞑想を習慣化して1年以上が経ちますが、本書に記載されていることは、まだ、なんとなくそうなんだと感じる程度ですが、思考が働かず、ありのままを感じるという点では、書いてある意味はわかる気がします。瞑想を始めて効果として実感することは、気づき力が高まること、自分の感情がコントロールしやすくなっていることでしょうか。奥の深い世界だけに、まだまだ何もわかっていないのでしょうが。。。