「カッコいい」とは何か(平野啓一郎)
凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は一人もいない。かっこいいは積極的に追い求められるだけでなく、自分が普通以下と見なされることの恐怖にも煽られている。カッコいいという概念はそもそも何か?個人のアイデンティティと深く結びついたこのテーマを人気小説家である著者が数多くの調査に基づき論じた一冊。
【本書の学び】
①カッコいいとは、しびれるような体感
②カッコいいことよりも、カッコ悪くないことへの意識が高い
③カッコいいのトレンドを作り出すのは音楽とファッション。但し、ファッションは情報社会になってから1年前の服もたくさん出回るようになったため、「去年の服=ダサい」ということにならなくなってきており、トレンドを作り出すのが難しくなっている。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯カッコいいの条件
・魅力的(自然と心が惹かれる)
・生理的興奮(「しびれる」ような体感)
・多様性(一つの価値観に縛られない)
・他者性(自分にはない美点を持っている)
・非日常性(現実生活から解放してくれる)
・理想像(比類なく優れている)
・同化・模倣願望(自分もそうなりたいと自発的に感じさせる)
・再現可能性(実際に、憧れていた存在の「カッコよさ」を分有できる)
◯カッコいいの語源
・「恰好」の方が「格好」よりも古い。「恰」はあたかも。「恰好」を読み下すと「あたかもよし」となる。
◯生理的興奮としての「しびれ」
・「カッコいい」存在とは、私たちに「しびれ」を体感させてくれる存在。
・「マジでカッコいい!」とか「超カッコいい!」といった感嘆の表現には、刺激的な体感が伴っている。単に、「あるものとあるものがうまく調和する・対応する」ことを冷静に、理屈や知識で判断しているだけではない。
◯「カッコ悪い」ことへの不安
・「カッコ悪い」と指摘されたり、噂されたりすると、私たちは、赤面し、心臓の鼓動が大きくなるのを感じ、なんとか「カッコ悪くない」状態に復帰したいと願う。これもまた強い体感を伴うが、凡そ誤解の余地がないような、ハッキリとした負の体感である。
・どうにかその状況を脱しても、自分が、人の記憶の中に、そんな姿で残っていることを想像すると、耐え難いものがある。
・「カッコ悪い」存在は、尊敬され、愛される。しかし、「カッコ悪い」存在は、人から笑われ、侮られ、同情され、馬鹿にされる。そして「カッコいい」と言われるラッキーよりも、「カッコ悪い」と言われるリスクの方がおそらく一般には高く、またその喜びよりも、ダメージの方が大きい。
・私たちの日常で班、普通であることが一種の安心になっている。「カッコいい」人間になりたいという積極的な願望を抱いている人より、せめて「カッコ悪い」人間でいたくないという程度の意識の人の方がはるかに多いだろう。
◯ダサい
・「ダサい」自体は、1960年代に「カッコいい」という言葉がブームになったのを受けて、70年代前半から関東で使用され始めて全国に広まった言葉。
・「カッコ悪い」ことは、当人を侮りの対象とさせ、対人関係を困難にさせる。「カッコいい」人間と「カッコ悪い」人間との間には、上下関係が発生し、ダサい恰好をしている人間は、本質的にダサい人間だと判断されてしまう。
◯ネットとダサい化
・元々「ダサい化」が可能だったのは、モードのブランドが、今シーズンの服は今シーズンしか手に入らない、という仕組みを作り上げていたから。定価で売れ残った服は、シーズンの終わりにセールで売り払われ、余った服は廃棄処分されていた。だからこそ、去年の服はもう去年の服であり、それを今年着ている人は「カッコ悪い」とされた。
・ところが、ウェブのファッションサイトで、昨年10万円だった服が、今年は半額で売られている、来年になるとさらに値引きされて、2万円で買える、といった事態が発生するようになると、消費者の間に、だったらそれでいいかという雰囲気が蔓延するようになった。
・全体的にシーズンごとの「ダサい化」が機能しなくなると、新作コレクションに「しびれる」よほどのファッション・ピープル以外は、流行に対してかなり緩い態度をとるようになる。趣味自体の多様さも相まって、今は絶対にこれを着ていないと恥ずかしいといった一世を風靡する流行も、ますます難しくなりつつある。
あらためて「カッコいい」という言葉を掘り下げていくと、「カッコいい」と感じる人、事業として「カッコいい」を作り出す人、歴史の大きな流れなど、考えることも広がっていくなと思います。「カッコいい」は自分視点、「カッコ悪いと思われたくない」は相手視点。人からどう思われているかということが気になりがちな私は、「カッコ悪いと思われたくない」意識の方が強いなと思いました。