『人物を創る』(安岡正篤)
四書五経のひとつ『大学』を読んだばかりで、やはり解説が欲しいなぁと思って再読(何回めだろ?)しました。本書は、「平成」の元号の生みの親でもあり、昭和を代表する東洋思想の大家である著者が、『大学』と『小学』について解説した人間学講話シリーズの一冊です。何度読んでも難しいところはありますが、言葉自体に慣れてきているところもあり、非常に微妙にですが、少しずつ成長を感じます。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯古教照心、心照古教
・古教照心
自分が客で書物が主。これだけではまだ受け身で、積極的意味において自分というものの力がない。
・心照古教
自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしていく。
◯『大学』は大人の学
・自己を修めるを『小学』といい、人を治めるを『大学』という。
・『大学』では「明明徳」「親民」「止於至善」を三綱領という。
・「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」を八条目という。
◯明徳
・「明徳」とは、我々のこの意識の世界。
・老子が言う「玄徳」とは、根底には自覚されない無限の分野。
・「明徳を明らかにする」とは、我々の持っている能力を発揮すること。明徳を明らかにしようと思えば、かえって玄徳に根ざさねばならぬ。それによって初めて明徳を明らかにすることができるので、そこで明徳を明らかにしようと思えば、哲学とか信仰とかが必要になってくる。したがって、孔孟の学と老荘の学は、あるところまでゆくと必ず一つになる。二つに分けるのは、本当のことがわからぬ証拠である。
◯民に親しむ
・道徳は「常に自己を新しくすること」である。何によって自らを新たにし、世を新たにすることができるのか。親しむことができて初めて新しくすることができる。単なる理屈や興味や打算などで、自己を新しく改造することはできない。本当の自分にならないとダメ。政治の革新にしても、やはり、民というものの親身にならなければ新たにすることができない。
◯止揚して「絶対善」に至る
・「至善」というのは、いうまでも悪に対する善の「相対的な善」ではなくて、いわゆるアウフヘーベン(止揚)という言葉あるが、とにかくそういう「絶対的な前に到達するに在り」。その後は「止する」という字を承けて、我々の境地のいろいろな層を論じている。これを「八原則」という。
◯「道」に至るための「八原則」
①「止することを知って而(しか)る后(のち)定まる有り」
ある境地に到達するに及んで、人間はだんだん安定してくる。進歩しなければ安定ということはない。
②「定まって而(しか)る后(のち)能く静かなり」
あるところに到達し、安定して、初めて静かになることを得る
③「静かにして而(しか)る后(のち)能く安んず」
人間でもできてくるほど静かに落ち着いてくる。がさがさしているのはできておらぬ証拠。
④「安んじて而(しか)る后(のち)能く慮る」
安定して初めて全能力が発揮される、正心活動が自由に行われる。
⑤「慮りて而(しか)る后(のち)能く得」
精神というものを十分に活動させて、初めてああだこうだと把握することができる。
⑥「物に本末有り」
だいたい存在する物には本末がある。
⑦「事に終始有り」
すべて事には終始がある。
⑧「先後する所を知れば則ち道に近し」
時間的にはどれを先にするか先後がある。
⇨以上は発展過程。三綱領を動的実践的にみると、こういう八原則をよく把握しなければならない。
本書にも書かれているのですが、人を治める『大学』よりも先に、自分を修める『小学』を読むと良いとされています。自分を修め、周りの人にもいい影響を与えていく、そんな考え方について改めて考えてみるいい機会となりました。