『渋沢百訓』(渋沢栄一)(◯)
原書は『青淵百話』。この中から57話が精選された本書。『論語と算盤』も良いですが、こちらの方も良書です。『論語と算盤』に比べると取り上げられているテーマが広く、「国家論」「人生観」「経営観」など経済社会全体を良くするための著者の考え方が濃密に記されています。「中田敦彦のYouTube大学(論語と算盤)」視聴⇨『論語と算盤」⇨本書の順で読んでいくと理解が深まると思います。特に、「知・情・意」が分かりやすかったです。
(印象に残った所・・本書より)
◯常識の修養法(常識とは)
・常識とは、事にあたりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を選別し、言語挙動すべて中庸に敵う者がそれである。「知・情・意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろう。普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力。
◯知
・「知」は人にとって如何なる働きをするものであろうか。人として智慧が充分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足をきたすのであるが、この物の善悪是非の識別ができぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人に如何ほど学識があっても善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それにつくわけにゆかぬから、左様という人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。ここを思えば智慧が如何に人生に大切であるかが知らるるであろう。
・仮に一身だけが悪事がないからよいと、手を束ねておる人のみとなったら、左様という人は世に処し社会に立ってなんらの貢献をするところもない。
・もし智の働きに強い検束を加えたら、その結果は如何であろう。悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事のためにも活動するものが少なくなってしまわねばよいがと、甚だ心配に堪えぬ訳である。
・智は実に人心にとって欠くべからざる大切の一条件である。ゆえに、智は決して軽視すべからざるものとしておる。
◯情
・情というものを巧みに案排しなければ、徒に智ばかり勝って情愛の薄い人間はどんなものであろうか。自己の利益を図らんとするためには、他人を突き飛ばしても蹴り倒しても、一向頓着しない。
・そこの不権衡を調和してゆくものが、すなわち情である。情は一つの緩和剤で、何事もこの一味の調合に依って平均を保ち、人生のことにすべて円満なる解決を告げてゆけるものである。
・情の欠点はもっとも感動の早いものであるから、悪くすると動きやすいようになる。人の喜怒哀楽愛悪欲の七情によりて生ずる事柄は変化の強いもので、心の他の部面においてこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起こる。
◯意志
・動きやすい情を控制するものは、強固なる意志よりほかにはない。強固なる意志があれば、人生においてはもっとも強みがある者となれる。けれども徒に意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただただ頑固者とか、強情者とかいう人物となり、不理屈に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っておってもそれを矯正しようとはせず、どこまでも我を押し通すようになる。
・意志の強固なるが上に、聡明なる智慧を加味し、これを調和するに情愛を持ってし、この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行ったのが、初めて完全なる常識となるのである。
・智と情とに対しよく権衡を保ってゆけるだけの意志がもっとも必要となる意志である。
◯常識の大小
・知情意の三者が充分なる調和を保ちて、円満に極度に発達した者が大なる常識で、これまでには及ばずとも、前の三者が相当に発達しておる者が小なる常識である。しかして、大なる常識を養い得たる者は聖人の域に達し、たとえ小なる常識でもこれを修養した者は、完人として世に処することができる。
・常識に対しては、知情意の三者が必須条件である。事物に接触してこれを識別理会するところの智能と、人と応対するにあたって敦厚なる情愛と、しかして何事の生涯に遭遇するとも、不屈不撓よくこれを貫き得るの意志を、この三者が完全に整うてこそ、常に常識的人物と言い得る。
読めば読むほど、もっと知りたくなる著者の考え。ここにきて、しばらく放置していた『論語講義』(約1,000ページ、16,500円)をついに読むのかどうか、考え始めたところです。やっぱりすごいですこの方。改めてそう感じました。