『密教』(松長有慶)(◯)
高野山大学のレポートのために読んだ「密教入門」という科目のテキストです。新書サイズのボリュームの中でよくまとまっており、密教について学ぶ最初の1冊としても適しています。今回この科目に関する書籍をかなりの冊数読みましたが、結局本書が一番多く読み、それだけ内容もコンパクトにわかりやすく詰め込まれていると感じました。
【設題】真言密教の思想特色として現実重視が挙げられるが、それは具体的には密教思想のどのような点において確認することができることか。真言密教の思想特色として現実重視が挙げられるが、それは具体的には密教思想のどのような点において確認することができることか。即事而真、当相即道、あるいは煩悩即菩薩という言葉、さらには真理の表現としての曼荼羅などに注意しながら論じてください。自己中心的な欲望と普遍的な欲望との関係について、上記の言葉と関係させながら論じるようにしてください。(3,800〜4,000字)
(印象に残ったところ・・本書より)
◯即身成仏思想
真言密教の現実主義については、即身成仏思想が挙げられる。
即身成仏とは、特定の修行を積んだ行者だけがなるものではなく、われわれ一人ひとりが、それぞれの宗教的な自覚と、正しい実践によって、この現実の身体のままに、真実に目覚めた者となることをいう。
もともと密教では、人間存在そのものが絶対存在である、ミクロコスモス以外にマクロコスモスはないと考えるため、現実に存在するこの身体をおいて、悟りはありえないという理論になる。大乗仏教で一般にすすめられる六波羅蜜の修行が、真言密教においては強いて取り上げられることはなく、むしろ瞑想を主体とした実践が、大きな比重を占めている。
◯一如(不二)
大乗仏教では、煩悩と菩提、身と心、色と心、能と所、真諦と俗諦、一と多、理と事など、二元的に相対立する概念を並べ上げる。一見して正反対に見えることも、本来は一つであって、それぞれ片面だけしか視点を持たないために、逆に見えていることも少なくない。自我意識に捉われ、自己を中心に世界を見るとき、そこに対立する意識が解明となり、ものごとを二元的に把握することになる。仏教はこの自我意識を否定し、無我を説く。自我を中心に展開する世界には、対立する他者が存在するが、自我意識をなくすれば、対立はもはや存在しない。
密教ではその関係を「智」と「理」という独自の言葉で表す。空海は『吽字義』の中で、「一も如であり、多も如である。また理も無数で、智も無数である。宇宙の広がりを考えれば、ガンジス河の砂粒の数も多いとはいえず、またごく微細な塵芥も、宇宙的な視野からすれば、決して小さいとはいえない」と、人間の認識作用の基準は、あくまで相対的で、それだけに頼っては、時間と空間を超越した真実の世界を見通すことができないことを明かす。物と心、主と客など対立概念は、無量、無辺の真実の世界では一つである。ここにおいては、理と智、物と心、主と客、一と多といった一切の対立する概念は根底から崩れ去る。密教がこのような対立的な考え方を、本来は一であると繰り返し主張するのは、ミクロとマクロの世界の本質的な一体性を、「瑜伽」の行を通じて直感する宗教体験を踏まえているからである。
「不二」という概念はおもしろいなと感じました。どちらも物事の真実を表しており、見ている面が違うだけ。自我が消えた時に本質が見える。日常の中でも「ハッ」と気付くこともあるし、瞑想もそこに気付く手段のひとつ。そう考えると、「絶対◯◯」って思った時には、「ホント?」って自問自答してみたいと思います。