角川ソフィア文庫「仏教の思想」シリーズ第4巻。高野山大学のレポートのために読みました。「唯識」。唯、識あるのみ。ナーガールジュナが説いた「空」は何もないということですが、その後を受けてヴァスパンドゥが説いた唯識理論。どちらも難解です。瞑想と共に感覚的にも、そして哲学的・論理的にも理解できないと「わかった!」にたどり着けない世界観かと思います。一方、「だいたいこんな感じだろう」というのは、書籍を読んでいけば感じることができ、そういう意味で本書は良い本でした。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯『唯識三十頌』(ヴァスパンドゥ=世親)
・仮構された存在形態
「三層の変化しつつ生成する識としてのありとあらゆる構想によって、ありとあらゆる実体が構想されているのであるが、それらの実体は、まったく自体がないにもかかわらず、自体があると構想されている実在であるに不義ない。あるがままに見られるときにはそれらは存在しない」(二〇)
人は通常「壺」「布」などの語に対応するものが外界に存在し、それを知覚する器官として「眼」などがあると思っている。しかし、実際にあるのは、瞬間ごとにその内容を異にする知覚現象、すなわち現勢的な識のみであって、「壺」「布」も「眼」も、具体的な事実としての知覚現象を分析する思惟によって抽出された要素である。それらの要素は、識を離れて独立に存在するわけではない。ところが人はそれらの要素を抽出して、外界の客体的存在と、自己を構成する内的器官となした上で、瞬間ごとの知覚内容の個別性を無視し、抽出した要素を類化して、「壺」「布」あるいは「眼」の概念を構成する。
・完成された存在形態
「菩薩道において実現されていく完全な実在とは、この他なる条件のままに生成する実在が永遠にいついかなるところにおいても自体がないにもかかわらず自体があると構想されている実在から離脱しているという、あるがままの如性である」(二一cd)
これは、「他に依存する存在形態」と別のものでもなく、全く同一のものでもない。「他に依存する存在形態」は瞬間ごとに異なる内容をもって発生する識であり、それは常に捉えるものと捉えられるもの、すなわち自己と客体的存在への執着の根拠となる。しかし、自己も客体的存在も識を離れて独立に存在するものではない。
「この菩薩道において実現されていく完全な実在がさとりの知によってあるがままに見られるのでない限り、かの他なる条件のままに生成する実在もあるがままに見られることはない」(二二d)
すなわち、「完成された存在形態」としての空・法性に人が目覚めたとき、彼には「他に依存する存在形態」がすなわち万物はただ識のみであることが、ありのままに理解されることが述べられている。
◯『唯識二十論』
・三界は唯心なり
冒頭に次の句がある。
「大乗は、三界は唯識なりと安立す(説を立てる)。契経(仏説とされている経典)に、三界は唯心なり、と説くを以ってなり」(玄奘訳)
これは、「勝利者の子(仏陀の弟子)たちよ、実に、この三界は心のみのものである」ということであり、ここで典拠とされている仏典は『華厳経』であり、引かれている文句の出所は、菩薩の十地(修行の過程を十の段階に分けたもの)について説かれた十地品のうちの第六(現前地)に関する部分である。
そして、この世のすべてのものは、眼病者の幻覚に現れる網状の毛のように、実在せず、ただ表象としてあるに過ぎないという唯識思想を示している。
・十地
①歓喜:菩薩が歓喜するから。なぜなら三種の結縛(貪・瞋・痴)を断じて如来の種姓として生まれるからである(中略)
②無垢:身口意における十種の業道はすべて垢れがないから(中略)。
③発光:寂静なる智慧の光が生ずるから。なぜなら、禅定と神通を生じ、また貪欲と瞋恚を滅し尽くすからである(中略)。
④焰慧:正知の光が生ずるから。なぜなら、菩提に関係のあるものを余すところなくことに修めるからである(中略)。
⑤難勝:いかなるラーマ(魔)も打ち勝つことができないからである。なぜなら四聖諦(苦集滅道)などの微妙な意味を理解することに通暁しているからである(中略)。
⑥現前:仏法に向かうから。なぜなら、止と観を修習することによって、滅を得て、広大となるからである(中略)。
⑦遠行:遥か遠くに赴くから。なぜなら、そこにおいては、刹那ごとに滅尽定に入るからである(中略)。
⑧童子地:それは不動とも言われる。無分別であるから。(中略)。
⑨善慧:(中略)なぜなら、四無礙知を得て、この地において慧が善となるからである(中略)。
⑩法雲:正法の雨が降るから。なぜなら菩薩や仏が清らかな光明をもって灌頂するからである(中略)。
反対者の疑問に対しては、
①②表象が空間的・時間的に限定されて生ずるということは、必ずしも表象されるものが外界に実在することは前提としない。なぜならば、ゆめの中では、実在する対象がないのに、ある特定の場所にだけ花園や男女などが見られ、しかもその場所において、いつでも見られるというのではなく、ある特定の時に見られるからである。
③前世で行った行為の結果として、餓鬼の状態に陥っている者は、みな一様に、清らかな水が流れている河を前にして膿や尿や汚物に満ちた河の表象をいだき、実際にはそこにおりもしない番人たちが、棍棒や剣を持って監視しているという表象を抱く。したがって、表象が一人の心だけに生ずるのではないからといって、対象が外界に実在することを認めねばならぬ理由はない。
④夢の中に現れた異性との交わりによって夢精が起こる。すなわち、実在しないものでも実際に効用を果たすのである。
いやぁ、難しいですよね。こういう哲学論争的なものがずっと繰り広げられているのが唯識や空の世界です。当時、上座部仏教の説一切有部という全ては実在するという論理に対抗した大乗仏教が説いたのが空であり、唯識なので、論争すれば自ずと論理的に論破していくという流れが出てくると思います。仏教感を論理的に説明していこうと思うとこういう難しい表現になるのかと、それはそれで学びになります。このテーマでレポートを書くのはなかなかハードル高いです。