王陽明「伝習録」を読む(吉田公平)
陽明学の祖、王陽明(1472〜1528年)の名著『伝習録』を解説した一冊。陽明学は、江戸時代に入って日本にも伝わり、藤原惺窩、林羅山、中江藤樹、佐藤一斎といった方々をはじめ、幕末運動から明治・大正の期にまで大きな影響を与えたと言われます。 本書では、『伝習録』の全文と口訳、そして、各章句について解説が付されています。この解説がよくまとまっており、解説を読んで興味が湧く章句を読んでいくという読み方も良いと思います。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯草と花(「花間草章:無善無悪説 上巻102条より)
・天地の生命力は、花も草も同じ。そこに善悪の区分など、何故あろうか。花を鑑賞したいと思った時は、花は善いもので草は悪者だと決め込んでいただろうが、もし、草を用立てしたいと思った時は、今度は草を善いものとみなすだろう。これらの善悪とは、すべてあなた次第という主体者の好悪の感性が決めたこと。
→元々、客体そのものは善悪の価値からは中立である。例えば、雑草などというものは、元々存在しない。それは単に「草」でしかない。見る者が、花を美しいと認めて善と評価したとき、その間に生えている草が、花の生長を阻害すると認められて、花との関係で初めて悪と価値評価されるのである。だから、善悪とは、あくまでも見る者の主観によって、客体相互間の、あるいは主客間の、相対的関係の中で、その都度後天的に決められるものなのである。客体の個々が先天的に善か悪かを固有しているわけではない。
・草そのものはもともと価値的には中立である。それを、自分が頭から悪と決めてかかっていたことが否定されたからといって、今度は、悪ではないのだと決め込むことは、前と同じ過ちを犯すことになる。客体の善悪を性急に決めるのではなく、自らの価値判断を鈍らせている、習慣的に身につけている善悪感からひとまず自由になって、新鮮な感覚で草を見つめること。客体はもともと善悪などないのだと決め込んで、主体の側が客体に何の働きかけもしようとしないのは、仏老(仏教思想、老荘思想)の間違った考え。
陽明学といえば、「知行合一」「致良知」という考え方が有名ですが、今の私には、まだスッと飲み込めている感じがなく、もう少し時間をおいてゆっくりと考えてみたほうが良さそうでした。他方で「花と草」の考え方は非常にわかりやすく、例えとしても秀逸であると思い、こちらはとても使える内容でした。