『涅槃経』を読む(田上太秀)
『『涅槃経』を読む』(田上太秀)
ブッダが臨終に際して説いた極意をまとめた『涅槃経』。本書は、『涅槃経』の案内書的な一冊で、『涅槃経』の中から特に重要であり、特色のある内容が抽出して紹介されています。ブッダの様々な教えの中で、最後に何を言い残したのか、気になるところがあり、読んでみました。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯仏性
・仏性の原語は「ブッダたちを生み出すもと」の意味。
・仏性についての7つの特質
①常住であること(限りなく、いつもあるもの)
②清浄であること(純粋であり、一切の生類に差別なくあるもの)
③実在であること(事実として存在しているもの)
④善であること(一切の生類のためになるもの)
⑤見ることができること(必ず知見できるもの)
⑥真実であること(幻でない本物)
⑦証明できること(必ず誰でも実現できるもの)
・「一切衆生悉有仏性」:すべての生類には仏性が備わっている
①仏性は身体にある
②仏性があるので、いつかはブッダになれる
③仏性があることを公言しても、それは嘘を吐いたことにはならない
◯仏性は心ではない
・仏典で、人の心を仏心と呼んでいる例はまったくない。
・「法句経」の冒頭においては、善なる心と悪なる心は人の行いによって作られるのであって、生来の善なる心や悪なる心はないと記されている。生来、人は仏心をもっているなどとはどこにも釈尊は説いていない。
・どうして生来持っている心は仏心とは言えないのか。人は、色・受・想・行・識という五蘊(ごうん)から成る生き物だからである。詳しく言えば、肉体(色)と心(受・想・行・識という感覚作用)とから成るのが生類であるから、いずれも作られたもの、無常のもの、壊れて滅びるものである。この五蘊から成る生類をいつも念頭において身体を考えるのが仏教の教えである。だから仏典では生来、仏心があるとは説かれていない。
◯修行が仏性を顕現する
・経典では、生類は多くの煩悩に覆われているために仏性を見ることができないと繰り返し述べている。
・「一切衆生の皆に仏性がある。この仏性があるので、数えきれない種々の煩悩の塊を断ち切れば、即座に最高の覚りを成就できる」(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻404頁下>)
・(参考)これに相応する六巻本の経文
「一切衆生の皆に仏性がある。身中の数えきれない諸煩悩を残らず取り除けば、仏性がすぐさまに顕現する」(分別邪正品第十<大正蔵経十二巻881頁中>」
・「一切衆生の皆に仏性があるが、煩悩に覆われているために知ることも、見ることもできない。だから方便を駆使して煩悩を断ち切らなければならない」(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻405頁中>)
・「一切衆生の皆に仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。もともと生類はいつも数えきれない煩悩に覆われているために、この我の真の意味を生類は理解できない」(如来性品第四の四<大正蔵経十二巻407頁中>)
・煩悩は身体の外からやってくるのではなく、五蘊から生じるものである。五蘊自身が生み出す煩悩が身体中に充満するために、仏性の内在を知ることも見ることもできないという意味。
ブッダの教えの原点である原始仏教は、宗教というより、在り方を学ぶ上での探究材料として読んでいます。なかなか教えの通りに心が整うわけではありませんが、考え方として意識して日常を過ごせば、「内省→実践」の繰り返し頻度が高まり、いつの間にか自分が変化しているということが起こるのだろうと思います。仏性の話は、ではどうすれば良いのか?という点を含めて、スッと理解するには至っていませんが、仏性は自分の中にあるが、色・受・想・行・識という五蘊によって見えなくなっているという点は他の原始仏典の経典と繋がるイメージができました。