『歎異抄』は、約730年前に浄土真宗の開祖である親鸞聖人を直接知る唯円という人物の手によって、親鸞の語録とその解釈、異端の説への批判を述べるものとしてまとめられました。小さな書物で、原稿用紙にすれば30枚ほどの分量しかないと言われている。『歎異抄』の書名は「異議を歎く」というところから来ている。親鸞が亡くなった後に、師の教えとは異なる解釈(異議)が広まっていることを歎いた弟子の唯円が、親鸞の真意を伝えようと筆をとったのが本書です。
著者が感じる『歎異抄』の魅力は2つ。①人の内実へズバッと切り込む、切れ味鋭い金言や箴言に溢れている、②それまで人々が漠然と抱いていた宗教や仏教のイメージをひっくり返す力を持っている(常識を揺さぶるような逆説的な内容や思想がいくつも書かれている)。
100分de名著シリーズは、大作もコンパクトに読めるという点が最も魅力ですが、本書もその一つだと思います。
(印象に残ったところ・・本書より)
◯『歎異抄』の構成
①前半(1〜10条):親鸞語録
②後半(11〜18条):歎異(異議)
◯まったく自見の覚語を持って、他力の宗旨を乱ることなかれ
(自分勝手な考えにとらわれて、本願他力の教えのかなめを思い誤ることがあってはなりません)
・「他力」は重要なキーワード。「易行=他力の仏道」。対になるのは、「難行=自力きの仏道」。
◯第一条冒頭
・『歎異抄』では、念仏を称えようという心が起こった時点で、もう救われるのだとあるから、いかに唯円が内面を重視していたかがわかる。「こんこんと煩悩が湧き上がる人でも大丈夫。仏様の願いに我が身をお任せすれば救われるのです」と第一条で確認している。
◯第五条:親鸞は父母の教養のためとて、一返似ても念仏申したること、未だ候はず
(親鸞は亡き父母の追善供養のために念佛したことは、かつて一度もありません)
・仏事を営むのは亡くなった人の追善供養のためだと思っていませんか?しかし親鸞は、そのために念仏したことはないという。その理由は2つ。
①全ての生命はつながっている
②念仏は自分の力、自分が積んでいる功徳ではない。
⇨仏様の導きで唱えさせて頂いている、それが他力の念仏。
◯第六条
・法然の教えに従って専修念仏の道をともに歩む人たちにおいては、私の弟子入りとか、人の弟子入りとうことは「もってのほか」だと諌めている。
・「親鸞は弟子一人ももたずに候ふ」・・私も仏様にお任せする道を歩んでいる。ここを間違えると、本質を損なってしまうという事柄に関して、親鸞は譲らないところがある。
・「南無」は、ナマスというサンスクリットの言葉に漢字を当てはめたもので、「帰命」「帰依」を意味する。要するに「おまかせします」ということ。
・アミタは、「限界がない」「限りなし」
・「仏」は、この場合は「はたらき」という意味。
・「南無阿弥陀仏」を称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命の働きにおまかせします」という意味。
・ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解する。自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の叫び声となって聞こえてくる。それが他力の念仏。「称える」ことは、すなわち「聞くこと:である。「称名」は、すなわち「聞名」である。ここが親鸞の念仏の本質。
◯「増悪無礙」(ぞうあくむげ)と「専修賢善」(せんじゅけんぜん)
・唯円は、「どちらにも偏ってはダメですよ」と言っている。社会的な視点から見れば、一念義系の方が具合が悪い。事実、一念義系の人々が問題視されてきた。しかし、多念義的な立場になってしまうと、そもそも他力の教えの本義から外れてしまう。なぜなら今までの仏道とはそれほど変わらないから。
・増悪無礙
一念義(=ただ一回の念仏で救われる)
信心重視(誓願不思議)
⇨浄土宗、浄土真宗の存在の意味。
・専修賢善
多念義(往生までできるだけ多くの念仏を唱える)
念仏重視(名号不思議)
⇨一般的な仏教。
読んでみるとちょっと難しかったですね。イメージをつかむのが。この仏教の世界は幅が広く奥も深いのが魅力的な世界。ちょっと難しいくらいがちょうどいいので、読んでいて気持ち位がいい感じでした。