MBA男子の勝手に読書ログ

グロービス経営大学院を卒業したMBA生の書評と雑感。経営に関する基本書、実務書のほか、金融、経済、歴史、人間力、マネジメント力、コミュニケーション力、コーチング、カウンセリング、自己啓発本、ビジネススキル、哲学・思想など、幅広い教養を身につけ、人間性を磨く観点で選書しています。

講孟余話(著:吉田松陰、編訳:松浦光修)

『講孟余話』(著:吉田松陰、編訳:松浦光修)(◯)

 著者が牢獄の中で書いた中で最も有名な主著とも言われる本書。1年ほどかけて『孟子』を講義した際の講義録です。本書はその全体の1/10ほどの分量を取り上げて解説を加えた内容になっています。全7章立てになっていますが、その中でも特に「学ぶ」という切り口で3章あり(逆境で学ぶ、学問を究める、教育を語る)、共感するところも多かったので、ここを中心にピックアップしてみたいと思います。

 

(印象に残ったところ・・本書より)

◯順境と逆境

・「順境」の人は、心がゆるんで怠けやすいもので、「逆境」の人は、心が引き締まって励みやすいもの。そして、何ごとにおいても、怠ければ失っていく一方、その逆に、励めば得ていく一方というのが人の常。

 

◯「罪」と「恥」はどちらが重いか?

・「罪」は我が身の問題。「恥」は我が心の問題。ですから、我が身の問題である「罪」の方が軽く、我が心の問題である「恥」の方が重い。

 

◯限りなく大きく、限りなく強いもの

孟子は「浩然の気とはどういうものですか?」と問われて、「それはこの上なく大きく、この上なく強い・・そういうもの。その気は、正しくまっすぐな道に従って、養い、損なわれないでいれば、ますます広く行き渡り、天地の間に満ち溢れるようになる。

孟子はこう語っている。「志を持ち続けることが大切。「志」と「気」は連動しているので、気を無駄なことで消耗してはなりません。「浩然の気」を養う方法は、「気」を無駄なことで消耗しないということ」。孟子が語っている「志を持ち続ける」は、私たちが、聖人や賢人の言動を学ぼうとする志を、しっかりと持ち続け、一瞬の間でも、その志を、ゆるませたり、たるませたりはしない、という意味。そのような学問をしていく上で、絶対にしてはならないことが一つだけある。

 それは、”したり、しなかったりする”こと。ある時は”したり”、ある時は”しなかったりする”ということでは、どのような学問であっても、決して成就することはない。ですから、たとえ一瞬の間でも、その志を、ゆるませたり、たるませたりしてはいけない。そのことを孟子は「志を持ち続ける」という言葉で強調して語っている。

 

◯すべては”初一念”が決める

・人にとっては”はじめの一念”が大切なもので、それが、その後の人生に、どこまでもついて回る。今学問をしている人の”はじめの一念”も様々でしょう。その中で、純粋な心で”正しい生き方”を求めている人は、上等ですが、”自分の名誉と利益”を求めて学問をしている人は、下等です。

 

◯「要点」をとらえられないなら、読書の意味はない

・人が「広く学んで、何ごとも、こと細かに説明する」のは、最終的には「要点」をはっきりと説明するため。

・「広く学ぶ」ところから、「要点」をとらえるところまでいき、今度は逆に「要点」をとらえてから、「広く学ぶ」ところにいく・・・。この2つは車の両輪のようなもの。2つを反復して繰り返すことで、学問の効果は上がる。

 

◯本を読む上での微妙なコツ

・だいたいにおいて本を読む時は、自分の心を白紙にして、本に向かい合わなくてはならない。はじめから自分の胸の中に、一つの先入観を持って読む・・・というのではなく自分の心を丸ごと本の中に投げ入れて、「この本は、私に何を伝えようとしているのであろうか?ああ・・そういうことを言いたいのか」と心を広く持ち、そこに書いてあることを、迎え入れるような気持ちで読んでいかなくてはならない。

・ところが、今の人々は、本を手にしても”自分の心を本に近づける”ようにして読むのではなく、それとは逆に”本を自分の心に引きつける”ようにして読んでいる。それは、孟子が語っている「自分の心で、その本に込められた思いを、迎え入れようとして読む」ということとは逆の、間違った読み方。

・学力のある人たちに限って、本を解釈する時には、自分にとって都合がいいように、強引な解釈をしがち。そういう人々は、「その本に込められた思いを、迎え入れようとして読む」ということが、まるでできていないわけで、そのため、そういう過ちを犯す。

しかし、その一方で、学力のない人が本を読むと、今度は本を信じすぎる・・という過ちを犯してしまう。そして細かい言葉に神経質にこだわり、そのあまり”活きた目”で”活きた読み方をする”ということができなくなってしまう。そうなると、学力のある人とは、また違った悪い癖を生むことになる。

・読書をするにあたっての、そのような微妙なコツは、自分で習得するしかない。言葉では、なかなか伝えにくい。

 

◯知ることと行うこと

・志を活発なものにし、その行いを研ぎ澄まされたものにしようとすると、そのあまり、”学ぶこと”を止めてしまいがち。それは、例えて言えば、的をしっかりと見ることもしないまま、強い弓で長い矢を放つようなもの。何ごとも”行うこと”の前に、まずは”知ること”を先に立てなくてはならない。

・その一方、世の中には読書をして世の中の「理」を明らかにすることだけに没頭している人々もいる。弓のたとえで言えば、「あの的は大きい」とか「小さい」とか「あの的は遠い」とか「近い」とか・・そういうことばかりでは、やたらと細かく知っているものの、実は一度も弓を手にして、矢を射る練習をしたことがない・・という人のようなもの。ですから人は”行うこと”を重視しなければならない。

・”知ること”と”行うこと”は、2つのように見えて、実は1つのこと。

 

◯「先生」と呼ばれたがる”病気”

・そもそも学問をするのは、要するに「自分を向上させるため」。人格の高潔な人は「自分を向上させるため」に学問をするが、それとは逆に、人格の低劣な人は「他人に認められるため」に学問をする。

論語:「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」

 

◯人格者の楽しみは、教育

孟子は、「人格者には3つの楽しみがある」としている。

①父母や兄弟が健在であること

②天にも人にも恥じることがないこと

③天下の中でも、ことに優れた才能を持つ人を見出して教育すること

 

◯神様に媚びるな

孟子はこう語っている。「「不運」や「幸運」は天から降りてくるのではなく、神から出てくるものでもない。いずれも、自分がそれを求めた結果、得たもの」。この道理を理解できる人々だけが、初めて”正しい生き方”の入り口に、ともに手を取って立つことができる。

 

 著者の吉田松陰さんは、わずか29歳の人生でしたが、これだけ重く心に響く言葉をたくさん伝え残したことを考えると、単に年齢ではなく、どれだけの時間考え、行動することを積み重ねたかという時間の大切をを感じます。誰にも同じく与えられ時間ですが、その時間を意識的に何に使い、何を積み重ねていくのか。まさに、在り方が問われる分野だと思います。

[新釈]講孟余話

[新釈]講孟余話

 

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